多角経営へ

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 燃料店であるため、忙しいのは冬なのだが、練炭と豆炭は夏によく売れた。作りたてを買っておき、自宅で乾燥させておくと燃料効率がよいということで、一般の家庭はこれらを夏のうちに買いこんでいたからである。
 それでも夏場は仕事が少なかった。近隣の数百軒の家の位置を熟知しているということで、都心のデパートの中元の配達を請け負った時期もあり、また、店の向かい側の土地に、夏の間だけ釣堀をつくり経営したこともある。これは五間四方ほどの池を造り、八王子の柚木(ゆぎ)から仕入れた魚を放した。また、燃料を扱う店ということで、関連商品の火鉢の販売も手がけた。品は府中の問屋から仕入れたが、一時はここから金魚鉢まで仕入れて売ったというが、これはよく売れた。さらに一時期、中宿でスーパーマーケットも開いたというから、店主の姿勢や才覚もさることながら、幅ひろく稼ぎの間口を拡大していくだけの勢いがこの地にあったのだろう。
 店の従業員は住み込みで月給制をとっていた。二段ベッドの部屋が与えられ、朝五時に起きると、まず炭切り機のベルトを作動させて炭を切る作業から一日が始まった。このとき出る炭の粉を一年間ためておき、タドンの材料として売ると、彼等の年一回の慰安旅行の費用がまかなえたという。
 この店の初代店主の記憶によれば、この地域の商店街の衰退が目にみえてあらわれるようになったのは、平成元年の暮れあたりからであるというから、ここでこれまで述べてきたことは、昭和の戦後という時期の内での消長と位置づけることができる。
 なお、この商店街の近くに稲荷の祠が祀られていた。「やまの稲荷」と呼ばれていたというが、商店街の人たちは折にふれてこの社(やしろ)におまいりをしていた。土地の地主は、青梅街道に居をかまえる農家だったが、この家に確認すると、この社は同家の屋敷神ではないという。それ以降、商店街の人たちが中心となってこの社を祀っていたが、宅地化が進んできたため、これを小川駅前に移し、現在も初午(はつうま)の日に稲荷社の前に集まり祈祷をした後、宴を開いている。