山梨から移り住んで

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 西武国分寺線小川駅の近くに、四代続いている食料品店がある。かつては食料品店というよりも、柳行李(やなぎごうり)や番傘にいたるまでの日用雑貨を取り扱うよろず屋であったが、その初代は山梨県東部の山間出身であり、小平のこの地に移り住み店を開いたのは明治四十二年(一九〇九)のことであるという。それまでは山梨から小平にさつまいもの買いつけに出向いていた。
 小平一帯のさつまいもは、「武州いも」と称されて評判がよく、貨車で十台二十台と買いつけられ、長野、山梨方面に運ばれていた。小川駅近くには、そうした商人が利用する宿もあった。寒くなったらさつまいもがよく売れた、雪が降るとさつまいもの値が上がったといった話は、小川のいく人もの古老が語っていた思い出になる。戦後、蔬菜栽培の普及とともにさつまいもは作られなくなっていったが、これは蔬菜のほうが収入がよいとの理由のほかに、良いさつまいもがとれなくなっていったこともその理由にあげられる。蔬菜は肥料を多用する。土が肥えすぎると、さつまいもは茎と葉に栄養がまわり、地下茎であるイモはよい出来にならないという。
 当時、小川駅のみでなく、近辺の西武線の駅は貨物列車の運行が主流であり、乗客は少なかった。昭和初期頃でも、客車専用の車両は、午前、午後に各二本程度であり、列車から人が降りてくると、駅前の道で遊んでいた子どもたちは、この人はどこに行くんだろうとじっと見ていたという。
 さて、この初代店主は、さつまいもの収穫期には、ひと月に十日ほどは小平に来ていたが、やがてここに落ち着き、瀬戸物、荒物、化粧品、米などを扱う店を開き、昭和になると酒も扱うようになった。店を開いたころは、駅の近くには、肥料、魚屋など数軒の店がある程度だったらしい。
図9-16
図9-16
小川駅前の商店。初荷の風景らしい。右のオート三輪につけられているのは初荷の旗。左にはショウチュウガメが積みあげられている。その後にはタワシやウドンすくいのオタマがかかっている。昭和初期頃 個人所蔵