以下、昭和十二年生まれの三代目のご主人からの話をもとに、往時の店の様子を述べてみる。
昭和三十年代半ばまでは、午前中に近所の家々の御用聞きにまわり、午後にはその注文の品々のうち、用意できるものをリヤカーで配達するのが店員の日課だった。当時、小川駅付近だけでも百軒ほどの住宅があり、そこを中心にまわった。多くはサラリーマンの家であり、納めた品は通い帳につけ、月末に取り立てにいったが、なかには盆暮れ払いの家もあった。ただ、その場合は、はじめに少し内金をいれてもらうことにしていた。月末になると、店を閉めた後、通い帳の計算の仕事があった。
仕入れの品は、連絡しておけば問屋から届いた。荒物は埼玉県所沢の問屋、瀬戸物は府中の問屋から来た。こうした問屋とのやりとりが厳しく細かくなっていったのは、昭和四十年頃からであるという。それまでは酒問屋から酒を届けに来た販売員は、この店で昼食を食べ、昼寝をして帰ることもあった。仕入れ金の請求も、帳簿を見て、「今月はこの辺までもらって帰ろうか」といった具合で大らかだったのが、納品伝票を確認して全額回収していくようになったという。商いの感覚が変わっていく節目の時期だったのだろう。
労働への時間感覚も今とは違っていた。この店には、その頃三人の住み込み店員がいたが、勤務時間は連日八時間をはるかに超えていたし、特に定められた休日は、店が休みになる元旦くらいで、あとは交代で休みをとり、年中無休に近い店の営業に支障が出ないよう働いていた。なお、この店員は、みな初代店主の出身地である山梨からやとっていた。昭和二十年代後半で、月給は千五百円ほどだったという。店は朝七時には開ける。御用聞きに出る前も仕事は多い。当時、商品の多くは計り売りである。午後配達する品の準備をこの時間にもしておく。砂糖や塩は新聞紙を折って作った紙袋に指定された重量を詰める。味噌は経木(きょうぎ)に包む。ソース、しょうゆ、酒などは、御用聞きにまわった折、それぞれの家から回収してきたビンに頼まれた量を計っていれる。油類は、冬は火鉢のそばで暖めてからビンに注ぐ。小麦粉も計り売りである。午後の配達が終わって、後始末をして店を閉めるのは夜八時か九時になる。盆前や暮れは特に忙しく、夜十二時ころまで店を閉めることができなかった。大晦日はそれから店の掃除にかかる。それが終わると、店員は正月にそなえて床屋に行った。この日床屋に行く顔ぶれは決まっており、床屋のほうから、そろそろ来るようにと電話がはいった。もちろん大晦日の床屋は、ほとんど徹夜の営業になる。店は元旦は休むが、翌二日から店を開ける。二日は初荷であり、問屋から旗を立てたオート三輪が荷を運んできた。
小平の個人商店が手がたく商売をしていた時代の様子の一端はこうしたものになる。