銭湯の一日

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 以下、この二代目のご主人(昭和二十年生まれ)からの聞書きをもとに、かつての様子を述べてみる。銭湯経営は、浴場、ボイラー、煙突といった設備を必要とし、個人経営の稼ぎとしては少なからぬ資本を要し、また毎日大量の水を使う。小川西町に居抜きで購入した銭湯の敷地には井戸があり、当初はこれを使っていたが、のちに深い井戸を掘り、水を確保した。下水道の設備が整うまでは、湯船から抜いた水は、ジャリ層が出るまで穴を掘っておき、そこに流していた。本節3で述べたスイコミである。
 日々の燃料の確保も、また骨の折れる仕事だった。朝六時には起き、リヤカーを引いて東村山や砂川(立川市)あたりまでの大小の建築現場をまわり、おがくずや廃材をもらい歩いた。昭和三十年代半ばからは三輪車を使うようになり、動く範囲も広くなった。飯能の製材所や横田の米軍基地まで廃材を引き取りに行った。燃料は、重さにしてひと月に四、五トンを要した。銭湯のなかには、燃料に重油を使うところもあるが、小平の銭湯は、今も廃材を使っている。こうした廃材は、現在では業者が建築現場から届けてくれるようになったという。
 こうした燃料集めから戻ると、午前十時頃になる。井戸から水をあげ、ボイラーで湯を沸かすのにそれからたっぷり二時間はかかる。当時、銭湯は午後一時からであり、この間ほとんど休む時間はない。浴場を閉めるのは夜十二時頃になることが多かった。近隣の商店で働いている人たちが入浴にくるのは、おそい時間になる。店を閉めてその日の帳簿付けなどを済ませて銭湯に来るからである。浴場を閉め、湯を抜いて掃除をすると就寝は午前一時頃になる。それがかつての銭湯の一日だった。
 盛んだった時は、多い日には一日に千人の入浴者が来ることもあったという。そのため昭和四十年頃までは使用人を二人おいていた。いずれも新潟県出身者である。その後彼等を雇わなくなったのは、銭湯利用者が減ったということもあるのだが、都心に銭湯よりも良い条件の働き口が増えていき、人の確保が思うようにならなくなったこともあるという。現在、銭湯はひと月に二回から四回の休日があるが、当時は休日はひと月に一回ほどであり、営業時間も現在より長かった。銭湯の休日は個々の店によって差があるのだが、多くは元日には休み、二日は初湯で開ける。これは今も昔も同じである。最近は五月五日に湯船に菖蒲を入れ、十月十日にラベンダーを入れ、十二月二十二、二十三日には柚を入れるといったサービスも行っている。
 浴場には正面に大きな背景画が描かれている(図9-17)。かつてはこの絵の下に商店が宣伝用のパネルを並べ、宣伝費を払っていた。銭湯はその金で絵師に仕事を頼んでいた。現在、商店街にはかつてのような勢いがなく、そうした宣伝パネルはほとんど姿を消した。背景画を描く絵師も少なくなった。現在、小川西町の銭湯の背景画は、国立市の絵師に頼んだものである。
図9-17図9-17
図9-17
(左)銭湯の背景画(平成19年12月12日描)。(右)商店宣伝用のパネル。これは撮影のために設置してもらったもの 小川西町(いずれも2011.4)

 住宅化の進展とともに勢いをもち、さらにその住宅が家屋としての諸設備を整えてくると逆にその勢いを失っていった銭湯の動きがこうした話のなかにそのままあらわれている。