小さな公園

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 また、一面に宅地化された住宅街のところどころには、小さな公園が造られている。これも現在ではありふれた市内の景観のひとつであろう。こうした小公園の出現も、宅地化の進展と並行してのものになる。土地の宅地化が三千平方メートル以上に及ぶ場合、その面積の六パーセントを公園、緑地にする旨、平成十七年施行の市の条例において、その事業主に求められているからである。それ以前は、土地の開発指導要項として要望の形をとっていたのだが、この年からそれが義務づけられることとなった。図9-20では、こうした公園の例を中心に、市域にある二百五十か所を越す公園や緑地の分布を示している。
図9-20
図9-20
市内の公園の分布。小平には都市計画公園、各種公園をあわせると300近い市立公園が分布している(都市計画緑地や保存樹林地を除く)。本文で述べた条例による公園は250を超す。ここではそれらの公園の大まかな位置と分布を示した(「小平市立公園等一覧図 平成22年4月1日現在」をもとに作成)

 往時、青梅街道は、道であるとともに子どもの遊び場であり、農家が穀物や野菜を干したり、出荷のために作物を並べて置く場所でもあった。大正十年(一九二一)に小川で生まれたある古老はこう語る。「子どもの頃、青梅街道は子どもの遊び場だった。馬車もたまにしか通らん。車は一日一台くらいしか通らん。子どもは弁当持って車が通るのを待ちよった。通ったあとは顔を道につけてガソリンの匂いをかいだ。子どもの頃は、あれがいい匂いに思えた。」
「小川の子どもたちは、朝、学校に行く前、自分の家の庭も掃く、家の前の青梅街道も掃く、それが仕事じゃった。昭和七、八年頃、小川で建坪六十坪、二階建ての建ち家を買って、下にコロを敷き並べて、二百五十メートルくらい移動させて自分の土地まで引き家をした人がおった。青梅街道を二日がかりで引いたけど、交通の妨げになるようなことはなかったね。たまに来る車は家をよけて通ったし、電線があると長いさおで電線を持ち上げて家を通した。その頃はこれを請負う曳(ひ)き屋さんがいて、こういうことは時々あったよ。」
 戦時中の作物の供出時も、農家は青梅街道にそれぞれの家が俵やカマスを並べ、それを農林省の役人がサシ(作物のなかに刺し込んで一部を取り出し検査する竹)で抜き取り、等級をつけていた。
 小平が市になった昭和三十七年に、東京都は子どもたちの路上スポーツ禁止を通達しており、翌三十八年六月の「市報こだいら」には、家屋建設の折、一時的に材木置き場として公道を使う場合には許可申請をするようにとの記事が見える。「交通が激化し路上への資材の放置が道路をますます狭くし事故発生の原因となって」いるからであるという。それまでは道が一時的な資材の置き場としても使われていたことがうかがえる。
 かつて多くの機能が混在していた道という空間が、特定の機能を背負わされ、機能の数だけ空間が分節化され、それに対応しての管理が進んでいく動きはこの頃から顕在化してきたのであろう。土地空間への管理とその責任の明確化、また管理効率の優先の姿勢が、行政により強くあらわれてきた、また求められてきたともいえる。そうした空間の分節化の流れの延長線上に位置するものとして、市内のあちこちで目にするちいさな公園を位置づけることもできよう。
図9-21
図9-21
「酒蔵(さかぐら)児童公園」。住宅地の中にある小さな公園。かつてここに造酒屋があった 小川町(2011.1)