梨作りの変化

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 さつまいもの間から始まった梨作りの試みのなかで、剪定、誘引、受粉、摘果、防除といった一連の作業も変ってきた。
 収穫が終わり、葉も落ちた十一月末頃から、梨の樹間には配合肥料と堆肥が入れられていく。一度に全面に入れるわけではなく、毎年位置をずらしながら入れていった。近年、梨畑に見られるようになったナギナタガヤも地力の維持に役立っているという。梨畑のなかで六月頃に倒伏して枯れた後、そのまま土に還るためである。ナギナタガヤは、梨畑の乾燥防止や雑草の抑制などいくつかの目的から、畑の全面もしくは木の根元の周りに蒔かれた。ナギナタガヤを梨畑の全面に播く場合には、十アールにつき二キロほどのタネが必要になる。
 肥料を入れ終わると剪定作業にうつる。剪定時に残された枝は縄で棚に結ばれた。棚の支柱には丸太、上の棚には自家の敷地内に生えている竹を使っていた。棚近くに実をつけた梨は、風に吹かれて竹に接触すると傷がつくため、あらかじめ摘果された。棚に使われた竹は太く梨と接触しやすかったことから、後に鉄線へと変わっていったが、竹を用いた場合と比べると風の影響を受けやすかった。
 防除作業は、手動の噴霧器を使っていた頃は大変だったと言われる作業で、赤星病の中間宿主となるイブキが植えられている家々を、果樹組合員が防除してまわったこともあった。防除をはじめ農作業の効率は、使用する農機具に左右されることも多く、新しい農機具を導入した農家の感想や評価は、お互いの耳に入ってくるものだった。また、詳しくは後述するが、畑に隣接した宅地や通行人への気配りから、防除作業を行う時間帯が選ばれるようになった(図10-9)。畑の周辺に宅地が増えるとともに、一日の仕事の時間配分も変わっていったのである。

図10-9
梨畑の内側から。畑に面して歩道が通る 大沼町(2009.6)


「当時は作っても出すところに困った」と言われるとおり、出荷も梨農家の手探りが重ねられた場面のひとつである。長十郎を主体として、菊水、新興といった品種が作られた梨は、十軒ほどの農家で小平果樹組合が作られた頃は、まだ販路に困り、各戸から持ち寄った梨を四キロ入りの袋にいれて、駅前に小屋掛けして販売を試みたという(『小平ふるさと物語』二)。こうした試行錯誤を経て、現在では宅急便を利用した直売方式が定着しており、個人宛に発送されるだけでなく、民間の会社が贈答に利用することもある。