「農業経営登録簿」(小平村農会)によれば、昭和十七年にこの家の畑は二町八反ほどあった。聞きとりのなかでも、戦後、飛地を含めて約二町歩ほど農地があったとうかがった。現在は相続税への対応から農地は減少し、母屋の後背約一ヘクタールほどが畑として利用されている。この畑の中ほどを田無用水が斜めに走る。用水の水を畑に使用することはできなかったが、用水の縁まで畑として利用していたため、自家の畑が接しているところの用水の土手が崩れると、補修を行った。
さて、同家で昭和十七年に作られていた作物は、陸稲三十五アール、大麦十アール、裸麦二アール、小麦三十五アール、さつまいも三十五アール、じゃがいも六アール、大根八十五アール、里いも五アール、桑園百アールである。桑園の面積が広く、また農業経営登録簿の世帯員に数えられている雇人(十八歳男性)の一年の農業労働日数のうち、約三分の一を養蚕が占めていることからも、養蚕を中心とした当時の農業経営の様子がうかがえる。
その約二十年後、昭和四十年になると、養蚕は姿を消し、また陸稲、大麦といった穀類や、戦後の食糧難を支えたさつまいもも見られなくなる。「農業(作付)調査票」(小平市経済課農産係)によれば、昭和四十年のこの家の耕地面積は普通畑百アール、樹園地十アールである。栽培されていた作物はじゃがいも二十アール、キュウリ三アール、スイカ二十アール、大根二十アール、ゴボウ十アール、ニンジン二十アール、里いも三アール、白菜三十アール、キャベツ二十アール、ホウレンソウ十アール、ラッカセイ三アール、茶十アールの十二種が確認され、昭和十七年時と比べて野菜の種類が増えている。主な出荷先は三多摩市場であった。当時、九人家族(うち男性二人)のうち、男女ともに二人ずつ計四名が農業に携わっていた。
この野菜中心の作付は現在まで続いている。ただし、栽培する作物の種類や量は少しずつ変わってきており、平成二十一年の十二月の作付(図10-11)では、ホウレンソウと、すでに収穫は終わっているがキャベツが畑の多くをしめている。他に、ネギ、ブロッコリー、里いも、ライ麦(土留め・緑肥用)、タマネギ、ニンジン、白菜、大根、トウモロコシが作られている。
図10-11 |
風垣を残すある畑の野菜中心の作付。この年は、宮中新嘗祭に献粟する精粟が2枚の畑(「献穀粟」と表記)に作付けられており、向かいにある「テント用地」もそれと関連してのものである |
この家で昭和十七年から現在まで栽培が続けられている大根は、前述の「農業経営登録簿」のなかで桑園に次いで作付面積が広かったことからもうかがわれるように、小平の主要な農作物の一つであった。
大根の種を蒔く時には、畑の地表にはわせた縄の両端をそれぞれ別の人が持って引きあい(ナワズリ)、その跡に沿って鍬でサクを切った。そこへ肥料を置き、その近くに種子を蒔いたが、自らの足あとが播種の間隔の目安となった。蒔き終ると浅く土をかけて、その上を鍬で押しつけて歩く。一週間ほどたち芽が出て、その後本葉が四、五枚になった頃、間引きをして倒れないように土を寄せた。
収穫は十一月頃から始まる。以前は練馬大根や秋早生大根などだったが、以後、三浦大根、おふくろ大根などが作られるようになった。練馬大根は沢庵用で細くて長いため、青首大根と比べて抜きずらい。片手で抜くことができる青首に対して、腰に力を入れて両手を使わないと抜けないものだった。
収穫した大根は、川の水をはった木製の大きなたらいの周りで、四人ほどの女性がサメの皮でこすって洗う。続いて洗い終わった大根をワラ縄で結んでいく。七~八本を結んで一連とし、母屋の近く、風通しのよい畑に組まれた台にかけて干した。台の木柱の下部は、畑の中に七十~八十センチほど埋める。柱を埋める穴は、断面が「レ」の字状になるように、片面が垂直になるように掘った。「V」の字状に掘ってしまうと柱がぐらつくからである。掘り終わると柱を立て、その周囲へ土をいれていく。底から三分の一までの土は丸太でよく搗き固めた。その上に入れる土は足で踏む程度にとどめ、最上部三分の一の土は再び丸太でよく搗かれた。
一週間以上干される大根は、霜にあたらないように、毎朝台にかけては夕方には下ろされた。下ろした大根はワラとムシロの上に並べるが、干されて細くなっているため、縄がほぐれないように注意した。折れた大根のように売り物にならないものは、サキボシされることもあった。裂いた大根の股を縄にかけて干したものである。十日ほど経つとかりかりに乾く。また大根の葉は、家の背後にある竹藪に縄を張って干し、干葉(ひば)にした。