農業のにおい

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 宅地に囲まれた環境のもとでの農作業では、近隣に暮らす人々への配慮が欠かせない。例えば先に述べた梨の剪定枝のチップ化は、それを野焼きした場合に発生する煙が周辺へ流れていくことへの配慮でもある。洗濯物が干されていると煙のにおいが移ってしまったりするからである。それを避けるために朝早く畑で燃した場合も夜干しされた洗濯物への注意が必要になる。ウドの根株を畑からウドムロに移植する時に、ある家ではウドの茎葉を刈ると同時にその場で少しづつ燃していったが、こうした作業も煙への気遣いから難しくなってきた。なお、野焼きは、農業・林業・漁業を営む上でやむを得ない場合のほか、いくつかの例外を除き、法律の上では、原則禁止となっている。そこにはダイオキシン対策という背景があるのだが、宅地に囲まれた環境のもとでの農作業のなかでは、ここで述べたようににおいが切実な意味を持つことになる。
 同様ににおいが関係してくる営みのひとつに豚・鶏・牛の飼養があげられる。ある家では、畑に入れた鶏糞のにおいに対して、苦情が伝えられたという。
 かつて多くの家では豚や鶏が飼われていた。豚は、七キロほどの子豚を二~四頭買ってきて、六十~百キロまで育ったところで豚屋に売られた。約六か月で育つため、年に二回ほど売ることができた。自家で飼っている豚に種付をして子をとり、この子豚を育てて売る家もあった。種付を行う雄豚は、棒を手にした豚屋が家まで追ってきた。豚は肥育されて現金収入となるほか、その糞は堆肥にも利用されていた。
 昭和三十年頃には牛を飼い牛乳を出荷する家もあった。組合があり、小平全体で五十人ほど組合員がいた。当時は、腰掛けに座って搾乳缶を足で挟み、手で絞った。乳価は一貫九十~百円ほどで、一頭の牛で一日に四~五貫目とれる。搾乳は一日に二度、早朝と日暮れ頃に行われた。夜に搾った分は集乳缶に入れ、用水の水につけて冷やしておく。そこへ翌朝搾った分を注ぎ足して集乳所へ自転車で持ち寄った。
 このように、現金収入や肥料を通して、農家経営のなかに位置づけられていた豚や鶏や牛であったが、養畜により生計を立てる場合だけでなく、各家で小数を飼育する場合も含めて、飼養する農家の数は減ってきた。その要因のひとつに、糞尿を初めとして飼養にともなうにおいが、野焼きのにおいと同様に住宅地へ届くことが上げられるだろう。