市場への出荷

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 昭和十二年生まれの男性が中学生の頃、小平の名産となっていた「小平スイカ」は共同で出荷されていた。各家ごとに集めておいたスイカを、トラックに積んで市場へ持って行った。出発は夕方である。市場に着いてから荷を並べるために人手が必要となるため、数人が一緒に乗り込んでいく。七人から八人が同乗していくこともあったという。市場に向かった人のうち、会計の担当となった二人は荷を降ろした後もその場に残る。翌朝の鉦の音とともにセリが始まるまでは休み、十時過ぎに会計を受取ってから、小平まで電車で帰ってきた。
 こうした話をうかがっている時に、「当時は(一軒一軒の農家に)車がないわけだよね」と耳にすることがあるように、共同出荷のありかたには自動車の普及が密接にかかわってくる。これは、個人で出荷する場合も同様である。農作物を運ぶ自転車リヤカーがオート三輪へと変わり、それにともなって出荷にかかる時間が変わることで、一日の作業のありかたも変わっていった。
「朝の三時に(牛の)乳を搾って。四時に市場に行ってね。オート三輪だから。神田市場にウド出荷したんだよ。朝早くだから、交番の眠気覚ましに取り締まりにあう。何積んでるんだと。一台で二~三万といったら、エーッと言っていた。おまわりさんの一月の給料と同じ。ウドは値が良かったからね。神田から帰ってくるのが七時から七時半。それから朝食をとって畑に行く」
 オート三輪が普及する頃、小平市の東部でウドを作っていた男性の働き方はこのようになっていた。彼の言葉のなかに神田の市場が登場するが、小平の全ての農作物が神田へ出荷されていたわけではなく、作物に応じて二十三区内の市場と三多摩地方市場が選択されていたという。