市場出荷とは別の販路も開拓されてきた。減少していく農地のなかでどのような種類の農作物をどのくらい栽培するのか、農家経営が多様な展開をみせてきたことは前述した。その過程は新しく導入した農作物や、作付面積が少なく生産量も少ない農作物をどのように販売していくかという模索を一方でともなっていたからである。
『小平ふるさと物語(二)』には、梨の販売について、次のような話が収められている。
「梨を作っても食べてもらえないと仕方ないから、野菜を作って野菜物を売りながら、『うちの梨も一つくらい食べてみてくれ』とただで持たせてやったんだ。味見をしてもらって、だんだん買ってもらえるようになりました。」
「それはみんなが売る苦労をしたから、今の小平の果樹組合があるのです。店を作って売っても売れないので、軽トラックに積んで一軒一軒頭を下げて売って歩いたこともありました。子どもを車に乗っけて、同級生の家などに売り歩いたものです。みんなは苦労して、やればやっただけのことがあることがわかり、自分で値段をつけて売るのだからおいしいものを作るようになりました。」
こうした試行錯誤を経て、現在では、前節で触れたように、宅急便を利用した販売方法が選択肢のひとつとして定着している。
軽トラックで梨を売り歩く様子は引き売りに似ているが、多摩の地域新聞『アサヒタウンズ』(一九九八年一月十七日)の記事には、ある主婦が小平で二十年間続けてきた引き売りの話が紹介されている。この方は、二十アールほどの畑で、年間三十種類から四十種類ほどの野菜を作っている。ご主人は勤めにでているため、平日は主婦一人での農作業となる。引き売りのお得意さんは約五十軒ほど、一日に回るのは二、三十軒だという。引き売りを始めたきっかけとして、農業だけで暮らしを立てることが難しい小規模な農地であり、作った野菜は、市場に出荷するほどの量がないことが述べられているが、約四半世紀にわたって引き売りが続けられた理由はそれだけではないようだ。
「『おしゃべり半分、商売半分。だから続いている』と□□さんは笑う。」(□□は人名。筆者注。)
「野菜一つひとつの値段が安いだけに、一日の収入は、良くて五〇〇〇円から六〇〇〇円だ。土地の税金は宅地並み。種や苗、もろもろの資材費と労力を考えれば、割りに合わない。パートに出た方がましだ。だがわずかな宅地化農地でも、農地として生きていれば、地域の人たちの農業への関心は少しは上向いてくれるはずと、□□さんは考えている。」
記事のなかではこうも表現されており、営農規模だけでなく、おしゃべりの楽しみや、都市化の下での農業の持続性に対する想いにも、引き売りという販路は支えられてきたことがうかがえる。