庭売り直売のきっかけ

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 東京都農業試験場の調査によれば、比較的広い経営耕地規模に対して、相対的に労働力が不足していた昭和三十五年頃の小平では、人手に余裕のない家では、農作業と労働力の面で競合する庭売り直売は必ずしも歓迎されない傾向があったという。労働力の競合が指摘されていることからは、当時の庭売り直売が対面方式で販売されるものであったことがうかがわれる。現在よく見かける無人販売が登場してくるのはもう少し後のことになる。小平市立図書館に所蔵されている郷土写真資料のなかに、「青梅街道にも無人野菜販売所」という標題が付けられた一枚がある。この写真が撮影された昭和六十三年当時、カメラが向けられ、このような標題が付される程度に無人の直売所は珍しい存在であったようで、ここ二十年ほどの間に数を増やしながら、ありふれた日常のひとこまにおさまってきた無人販売の動きを、写真越しにうかがうことができる。
 このように、対面方式と無人方式からなる庭売り直売が小平で日常的にみられるようになったのは、ここ半世紀ほどの間のことであり、それを手掛けるようになったきっかけを実体験としてうかがうことができる。花小金井に暮らす男性(昭和九年生まれ)は、市場での集荷方法の変化にともなうコスト増加を転機として上げる。例えば、出荷時に五十玉ほどを裸のままピラミッド状に積み上げていたキャベツの場合、段ボール箱に入れての出荷に変わると、その分の資材費がかかり、また形をそろえて箱詰めすることで手間も増えた。そのため、集荷にかかる経費をおさえることができ、販売価格も低めに設定できる庭売り直売が選ばれたのである。
 庭売り直売を拡大させることは、同時に市場における売上げが変わることを意味していた。時には、農家と市場との複雑な関係のなかで、直売という販路を広げていくことで市場への出荷が難しくなり、それがまた直売の展開をうながす、そんな実感を持たれる場合もあったようである。