2 古老の手記から

782 ~ 784 / 881ページ
 たとえば第一章で紹介した大沼田の大正八年生まれの方の手記には次のような話が記されていた(詳細は巻末資料②参照)。
 
●狐に化された話
 この話は母親から聞いた実話です。
 私の父は大久保粂次郎で、その父親が米蔵です。ですから私のおじいさんです。おじいさんは私が知っているのは何時も倉の二階に寝ていて、朝起て来ると新聞を見てから田藁を木槌で叩き縄をなっていて、チャガ[茶芽]が出る頃になるとチャガを干してチャガの丈夫な細い縄をなっていたのを知っていて、夕方になると風呂を焚き付て、最後の薪を之だけくべれば良いからと薪三、四本になって私に後を押付けて、「居酒屋のオケヤ」とみんなが呼んでいた寺前の新保クラ様店に行き酒を飲むのが日課で、昭和四年七月二十八日七十八才で自宅で老衰で亡くなった。私が小学四年生だった。そのおじいさんが或る日久留米村前沢の店に行ったきり夜になっても帰って来ないので、家にいた者みんなで前沢に行った道、現在の滝山団地(その頃は東京街道から前沢に行くには雑木林の続いた山を通らないと行けなかった)の山を探した処、おじいさんは足を血だらけにして山の中を歩いているのを見つけたので、「おじいさん何しているのだ。帰ってこないのでみんなで探しに来た」と言うと、家に帰ろうと良い道をどこまで歩いても家に着かないんだと話したと言う。結局狐が良い道路に化けておじいさんをだまし、山の中を歩かせていたことが判ったと云う。
 今の滝山団地附近は、昭和十年頃までは柳窪から柳窪新田までと東京街道から所沢街道までの間に一軒の家も無く、山続きと畑で淋しい処で秋はきのこ取りの山で、首つり自殺者がよく見つかる人の寄りつかない山だった。
 
●狐の提灯行列を見た話
 この話は昭和元年頃、私が小学校一年生の時、今の昭和病院に行く道路(東京街道)入口東にある竹山の南(現在宮崎庄一様宅)の処に、兄辰季と当麻久五郎氏と金子文一と私の四人で遊んでいて夕方になり薄暗くなった時、南西方面丁度延命寺方向に右から東に丸い提灯が同じ間隔で次から次と続き、東から順に消えて行くのをみんなで見ていたが、誰かが「狐だ」と言ったのでみんなバラバラになって夢中で家に逃げ帰ったことがある。今考えて見てもあの頃は東京街道から青梅街道までの間全部畑で家は一軒も無く、又当時は自動車は殆んど通らず月一、二台走る位で、今の西武新宿線は昭和二年四月一六日開通でまだ電車も通っていない時だったので、狐の提灯行列としか思えない不思義な想い出である。

 また同資料には次のような不思議な話も記されている。
●花輪の歩いた話
 昔大沼田新田を開いた先祖は当麻彌左ヱ門一家であるが、その子孫の葬式の時、当時としては花輪を葬式の時、お寺の本堂の本尊様の西の部屋に南に向け飾ってあったのを私達もよく見て知っているが、ある時当麻家最後の長男が若くして病死した葬式の花輪が歩き出すと評判になり、新聞社まで来た時があり、私は見に行ったが私の見た時は歩かなかったが、尾崎直次郎様は見たと言う現在の生證人の一人である。
 その死亡した長男は、私の兄が大沼田の青年分団長だったので、夜役員会の時には家に来たのを覚えている。
 これは私が六つの時のこと。この長男は結核で亡くなった。ふつうの家では葬式に花輪が届くようなことはないのだが、名主の家なのでふたつ届いていた。お寺の本堂の正面に仏さまが安置されていて、花輪はその左手の畳の上に置いていた。花輪は前に二つ後に一つ足が出ている三脚の形で、これが歩き出したという。お坊さんがもどしてもまた歩いたという。これを見た尾崎直次郎さん-当時十六歳-は二〇〇八年の五月に亡くなった。