上鈴木で、大正十一年(一九二二)生まれの男性に次のような話を聞いた。
幕末の頃、世情が物騒で、あちこちに夜盗が出没しており、彼の向いの家では、万一にそなえ剣術使いを用心棒に雇っていたという。ところがある日夜盗にはいられた。家の者が何度も「追っ払ってください」と叫んでも、部屋でふとんのなかにもぐりこんだまま、その都度「うーん」と返事をするだけで出てこない。結局いくばくかのものを取られ、その先生にはひまを出したという。それからまもなく、彼の家にも夜盗がはいったが、なぜか、その家の娘-この話を家族にしていた大正十一年(一九二二)に亡くなったおばあさん-の名前を夜盗は知っていたと言う。家族は怖くなって、幕末の一時期、神田(千代田区)に家を借りてしばらくそこに住んでいた。
それだけの話なのだが、同家で代々語り継がれてきたという。
同じような話として以下少し示してみるが、これも再話者による補いがあることは付記しておきたい。
●玉川上水の桜(『小平市報』より)
そうだね、上水の桜といゃあ、そりゃ見事なもんだったよ。わたしが嫁に来た頃は、小金井橋から東西に一里半、千本もの桜が一どきにぱっと咲いたんだからね。
四月の十日すぎだったかね、見頃なのは。近郷近在から、えらく人がくり出して来てよ。そりゃあ、にぎやかだった。
中野の方から来る人は、武蔵境で電車おりると、一日がかりでのんびり花見していった。
村の人たちは、あったけえ日が続いて桜のつぼみがふくらみだすと、
「せい出してやらねえと花見できねえぞ。」
って、野良におっとばされたよ。
そんで、桜が咲き出すと、みんなして花見に行ってんべえということになる。
上水べりのうちじゃ「にわか茶屋」っていってね、店先や縁側にもうせん敷いて、焼きだんごや、うで芋なんか売ったね。酒までおいたうちもあったよ。むしろを貸したうちでも、結構かせえだね。一枚いくらだったかねえ。
だからこのあたりじゃあ、春の肥料代を花見でかせぐうちが、ほとんどだったね。しまいにゃ隣り近所で先をあらそうほどにね。
朝から花見の人でごったがえしてたよ。そんな中を、おだいじんのだんなが、人力車でえばってやって来ることもあったけんどね。
土手の上にむしろ敷いて、べんとうひろげたり、酒のんだりしてるところへ、ながしの踊りっ子なんかがやってきてね。
酒っていゃあ、酔っぱらいやけんかがつきもんで、たまあに、上水におっこちる人もあったね。あのころの流れは、水かさもあったし、とても早かったから、助かる人は運がよかった。
正月そうそう縁起でもねえけど、上水におちて人が死んだりすると大ごとだったね。
川の中をさかいに、あっち側が府中、こっち側が田無の警察の管かつだったから、しらせを聞いてね、両方の駐在さんとんできてたち合った。そうして
「まんなかより、そっちの方によけいに入ってるから、そっちで引きあげて調べろ。」とか
「いや、お前のほうに頭が入ってるから。」
といったぐあいでね。仏さま前にして、ゆずり合ったって仕方あんめえにね。
そうそ、上水におっこちる話でも、ありがたい話があったねえ。
花見客がおとしていった酒びんを、子供らがひろってあるいたんよ。
竹の棒の先にあみくくって、流れにぷかぷかういてるのを
「それっ」とばかりすくいあげちゃってね。その酒びん、酒やに持ってくと、一銭くれたんよ。その一銭で、子供らなに買ったかって……。
鉄砲玉よ。そう、黒い大きなあめ玉。店やのばあちゃんが小さく切った新聞紙を三角に折って、ガラスびんの中から鉄砲玉つまみだすと、ころんと入れてくれてた。そんときの子どもらのうれしそうな顔ったらよ。
それを口の中にぽんとほおりこんで、たからもんみてえに、たいじになめてたね。
「おめえの、どれくれえになった。」
「おらのは、これくれえだよ。」
なんて、口あいて見せっこしたりしてね。
近頃は、流れもかれてしまって、桜も何本ものこってねえから、とってもさびしいね。
うちん中まで、風にのって花びらがたくさん舞いこんできた昔がなつかしいねえ。
●はじめて汽車がはしったころ(『小平むかしむかし』より)
すこし、むかし。
小川のあたりで、汽車が通るという話で大さわぎになった。
「なんでも、えらいけむりをはいて、はしるのらしい。」
「そのけむりで桑がだめになんねえかな。」
「火のこをふきだすというから、火じにでもなったらことだよ。」
なんて人びとはかおを合わすと、汽車の話ばっかり。
そのうちに、鉄道会社が組がしらのところに正式な話をもってきた。
「いろんなうわさがあるだろうが、そんなしんぱいはいらない。村のために、なんとか汽車を通すようにしてほしい。」
役場からもなんどか人がやってきた。
それでも村の人たちは、首をたてにふらなかった。
そんなとき、この汽車を通すほうが、よいと思った人がひとりいた。
「ゆくゆくは所沢や川越まで鉄道がのびるそうだ。そうなりゃ、きっと村のみんなのやくに立つにちがいない。」
小川の北あたりにすむこの人は、はんたいの人をときふせることにした。
このお人は、はんたいする人たちの家にいって
「いまに、やさいだのまゆだのはこぶのに、べんりになるぞ、ひとつ、村がさかえるために、うんといってもらえまいか。」
と、いうのだった。
このお人は、このあたりでは頼りがいのある人だったし、あんまり熱心にといてまわるので、ひとり、ふたりとよい返事をする人が出てきた。
「線路っぱたの桑ばたけさえ、だいじょうぶなら。」
「停車場は、家やしきからはなれた所にしてくれるなら。」
といって、しぶしぶ汽車を通すことにしたんだと。
明治の中ごろの話だから、いまから百年も前のことだ。
工事には、大ぜいの村の人たちが出て、毎日毎日土ならしをしたり、もっこかつぎをしたんだ。
こうして汽車が走ることができたのは、この人のおかげだと鉄道会社もこのお人には、頭があがらなかった。
さて、いよいよ汽車が通るその日。
「あさ早くから、べんとうもちで来たんよ。」
「話には聞いとったが、馬車よりずっと早いそうだ。」
なんて、てんでに線路っぱたにござをしいて、汽車をまっとる人でいっぱいだった。日の丸のはたをもった子どもたちもおった。
(開通記念に、一日だけ汽車ちん無用)
新聞にも出ていたし、停車場にもこんなかみがはってあった。
小川停車場には、村のえらい人たちが、むねに大きなりぼんをつけて、しんみょうなかおして待っていた。
それに、めずらしもんずきの人たちも、いっぱいおしかけていた。きっと汽車にのりきれない人があっただろうよ。
国分寺えきを出た汽車が、はたけのまん中つっきって、小川停車場についたときは、えらいさわぎだった。
「ばんざい、ばんざい。」
「すげえなあ。」
「しんだじいさまに、ひと目見せてやりたかった。」
などと、人びとは話し合った。はんたいしたことなんぞ、すっかりわすれてしまっていた。
汽車は国分寺と東村山の間を、一日六かい往復した。
あるいたり、馬にひかせるより、ずっと早くてらくだった。
けれども、汽車ちんのことを思うと、のる人はすくなかった。
それなのに、のら仕事のやすみの日は、ちかくの村から汽車を見にくる人でいっぱいで小川停車場あたりは、たいそうにぎわった。
ある日のこと。
用が出来て、国分寺にいくことになっていた小川停車場ちかくにすむあのお人が、どうしたことか汽車にのりおくれてしまったんだ。
そうすると、あのお人は、停車場を発車してこっちへはしってくる汽車にむかって、
「おうい、とめてくれえ。」
と、にわ先で手をあげたんだ。
きかんしは、はじめ、
「はて、なんだろう。」
と思いながら、通りすぎようとして気がついたんだ。
「たしかあの人は……。そうだあの人だ。はい、わかりました。」
と、さっそく急停車。停車場でもないあのお人のにわ先で。たまげたねえ。
すると、
「はい、ごくろうさん。」
ゆっくりと、そのお人が汽車にのりこんだ。
「ぽーっ。」
汽てきをひとつのんびりならすと、汽車はうごき出したんだ。
今でも小川駅ちかくには、この話をしてくれる人がいる。
●「す組」の火けし(同)
むかし、小平にも江戸の「いろは組」におとらぬ、りっぱないい火けししゅうがおった。
鈴木新田の「す組」の火けしのことだ。
鈴木の「す」をとって「す組」ってえのは、いきなもんじゃねえか。
その「す組」が、じぶんの村だけじゃなくて近くの村やとおくは所沢の方からも、すけっとをたのまれて出かけていったんだ。
どんなふうに火をけしたんかっていうと、組でかったばかりの竜越(竜吐水)をひっかついでいったんさ。
今でいう手おしポンプさ。四、五人がむかいあって上下におしたりひいたりして、一方のつつから水をすいあげ、もう一方のほそながいつつでとおくへ水をとばす仕組になっとるんじゃ。
そのあいだ大ぜいの人が、川からせっせとおけに水をくんで、竜越の中に入れるんだから、なんとも大へんなんだ。
ほれ、平賀源内がはつめいした水でっぽうのばけものみてえなどうぐだ。
むかしの家は木で出来ていたし、やねもわらだったから、あっというまに火がもえひろがってしまう。そんなになる前に、竜越がせいいっぱい力を出すわけじゃ。
ふき出す水のすごさは、たいしたもんじゃったなあ。
それからというもの、「す組」の火けし「す組」の火けしって、火事がおきるたびにおよびがかかり、そのたびにわかいもんが「す組」のはたひったてて、竜越をひっかついでとんでいったんだ。
めったに火事などあるもんじゃないが、そのはたらきっぷりは、たいしたもんじゃった。
むすめっこの中には、「す組」のわかいもんでなけりゃ、よめにいかねえっていうのがおったくらいだからね。
小金井橋の郷土館に「す組」とかいた赤いはたと竜越(竜吐水)が今でもたいせつに、ほぞんされておる。
そうだね、上水の桜といゃあ、そりゃ見事なもんだったよ。わたしが嫁に来た頃は、小金井橋から東西に一里半、千本もの桜が一どきにぱっと咲いたんだからね。
四月の十日すぎだったかね、見頃なのは。近郷近在から、えらく人がくり出して来てよ。そりゃあ、にぎやかだった。
中野の方から来る人は、武蔵境で電車おりると、一日がかりでのんびり花見していった。
村の人たちは、あったけえ日が続いて桜のつぼみがふくらみだすと、
「せい出してやらねえと花見できねえぞ。」
って、野良におっとばされたよ。
そんで、桜が咲き出すと、みんなして花見に行ってんべえということになる。
上水べりのうちじゃ「にわか茶屋」っていってね、店先や縁側にもうせん敷いて、焼きだんごや、うで芋なんか売ったね。酒までおいたうちもあったよ。むしろを貸したうちでも、結構かせえだね。一枚いくらだったかねえ。
だからこのあたりじゃあ、春の肥料代を花見でかせぐうちが、ほとんどだったね。しまいにゃ隣り近所で先をあらそうほどにね。
朝から花見の人でごったがえしてたよ。そんな中を、おだいじんのだんなが、人力車でえばってやって来ることもあったけんどね。
土手の上にむしろ敷いて、べんとうひろげたり、酒のんだりしてるところへ、ながしの踊りっ子なんかがやってきてね。
酒っていゃあ、酔っぱらいやけんかがつきもんで、たまあに、上水におっこちる人もあったね。あのころの流れは、水かさもあったし、とても早かったから、助かる人は運がよかった。
正月そうそう縁起でもねえけど、上水におちて人が死んだりすると大ごとだったね。
川の中をさかいに、あっち側が府中、こっち側が田無の警察の管かつだったから、しらせを聞いてね、両方の駐在さんとんできてたち合った。そうして
「まんなかより、そっちの方によけいに入ってるから、そっちで引きあげて調べろ。」とか
「いや、お前のほうに頭が入ってるから。」
といったぐあいでね。仏さま前にして、ゆずり合ったって仕方あんめえにね。
そうそ、上水におっこちる話でも、ありがたい話があったねえ。
花見客がおとしていった酒びんを、子供らがひろってあるいたんよ。
竹の棒の先にあみくくって、流れにぷかぷかういてるのを
「それっ」とばかりすくいあげちゃってね。その酒びん、酒やに持ってくと、一銭くれたんよ。その一銭で、子供らなに買ったかって……。
鉄砲玉よ。そう、黒い大きなあめ玉。店やのばあちゃんが小さく切った新聞紙を三角に折って、ガラスびんの中から鉄砲玉つまみだすと、ころんと入れてくれてた。そんときの子どもらのうれしそうな顔ったらよ。
それを口の中にぽんとほおりこんで、たからもんみてえに、たいじになめてたね。
「おめえの、どれくれえになった。」
「おらのは、これくれえだよ。」
なんて、口あいて見せっこしたりしてね。
近頃は、流れもかれてしまって、桜も何本ものこってねえから、とってもさびしいね。
うちん中まで、風にのって花びらがたくさん舞いこんできた昔がなつかしいねえ。
(再話 今井美代子)
●はじめて汽車がはしったころ(『小平むかしむかし』より)
すこし、むかし。
小川のあたりで、汽車が通るという話で大さわぎになった。
「なんでも、えらいけむりをはいて、はしるのらしい。」
「そのけむりで桑がだめになんねえかな。」
「火のこをふきだすというから、火じにでもなったらことだよ。」
なんて人びとはかおを合わすと、汽車の話ばっかり。
そのうちに、鉄道会社が組がしらのところに正式な話をもってきた。
「いろんなうわさがあるだろうが、そんなしんぱいはいらない。村のために、なんとか汽車を通すようにしてほしい。」
役場からもなんどか人がやってきた。
それでも村の人たちは、首をたてにふらなかった。
そんなとき、この汽車を通すほうが、よいと思った人がひとりいた。
「ゆくゆくは所沢や川越まで鉄道がのびるそうだ。そうなりゃ、きっと村のみんなのやくに立つにちがいない。」
小川の北あたりにすむこの人は、はんたいの人をときふせることにした。
このお人は、はんたいする人たちの家にいって
「いまに、やさいだのまゆだのはこぶのに、べんりになるぞ、ひとつ、村がさかえるために、うんといってもらえまいか。」
と、いうのだった。
このお人は、このあたりでは頼りがいのある人だったし、あんまり熱心にといてまわるので、ひとり、ふたりとよい返事をする人が出てきた。
「線路っぱたの桑ばたけさえ、だいじょうぶなら。」
「停車場は、家やしきからはなれた所にしてくれるなら。」
といって、しぶしぶ汽車を通すことにしたんだと。
明治の中ごろの話だから、いまから百年も前のことだ。
工事には、大ぜいの村の人たちが出て、毎日毎日土ならしをしたり、もっこかつぎをしたんだ。
こうして汽車が走ることができたのは、この人のおかげだと鉄道会社もこのお人には、頭があがらなかった。
さて、いよいよ汽車が通るその日。
「あさ早くから、べんとうもちで来たんよ。」
「話には聞いとったが、馬車よりずっと早いそうだ。」
なんて、てんでに線路っぱたにござをしいて、汽車をまっとる人でいっぱいだった。日の丸のはたをもった子どもたちもおった。
(開通記念に、一日だけ汽車ちん無用)
新聞にも出ていたし、停車場にもこんなかみがはってあった。
小川停車場には、村のえらい人たちが、むねに大きなりぼんをつけて、しんみょうなかおして待っていた。
それに、めずらしもんずきの人たちも、いっぱいおしかけていた。きっと汽車にのりきれない人があっただろうよ。
国分寺えきを出た汽車が、はたけのまん中つっきって、小川停車場についたときは、えらいさわぎだった。
「ばんざい、ばんざい。」
「すげえなあ。」
「しんだじいさまに、ひと目見せてやりたかった。」
などと、人びとは話し合った。はんたいしたことなんぞ、すっかりわすれてしまっていた。
汽車は国分寺と東村山の間を、一日六かい往復した。
あるいたり、馬にひかせるより、ずっと早くてらくだった。
けれども、汽車ちんのことを思うと、のる人はすくなかった。
それなのに、のら仕事のやすみの日は、ちかくの村から汽車を見にくる人でいっぱいで小川停車場あたりは、たいそうにぎわった。
ある日のこと。
用が出来て、国分寺にいくことになっていた小川停車場ちかくにすむあのお人が、どうしたことか汽車にのりおくれてしまったんだ。
そうすると、あのお人は、停車場を発車してこっちへはしってくる汽車にむかって、
「おうい、とめてくれえ。」
と、にわ先で手をあげたんだ。
きかんしは、はじめ、
「はて、なんだろう。」
と思いながら、通りすぎようとして気がついたんだ。
「たしかあの人は……。そうだあの人だ。はい、わかりました。」
と、さっそく急停車。停車場でもないあのお人のにわ先で。たまげたねえ。
すると、
「はい、ごくろうさん。」
ゆっくりと、そのお人が汽車にのりこんだ。
「ぽーっ。」
汽てきをひとつのんびりならすと、汽車はうごき出したんだ。
今でも小川駅ちかくには、この話をしてくれる人がいる。
(再話・今井 美代子)
●「す組」の火けし(同)
むかし、小平にも江戸の「いろは組」におとらぬ、りっぱないい火けししゅうがおった。
鈴木新田の「す組」の火けしのことだ。
鈴木の「す」をとって「す組」ってえのは、いきなもんじゃねえか。
その「す組」が、じぶんの村だけじゃなくて近くの村やとおくは所沢の方からも、すけっとをたのまれて出かけていったんだ。
どんなふうに火をけしたんかっていうと、組でかったばかりの竜越(竜吐水)をひっかついでいったんさ。
今でいう手おしポンプさ。四、五人がむかいあって上下におしたりひいたりして、一方のつつから水をすいあげ、もう一方のほそながいつつでとおくへ水をとばす仕組になっとるんじゃ。
そのあいだ大ぜいの人が、川からせっせとおけに水をくんで、竜越の中に入れるんだから、なんとも大へんなんだ。
ほれ、平賀源内がはつめいした水でっぽうのばけものみてえなどうぐだ。
むかしの家は木で出来ていたし、やねもわらだったから、あっというまに火がもえひろがってしまう。そんなになる前に、竜越がせいいっぱい力を出すわけじゃ。
ふき出す水のすごさは、たいしたもんじゃったなあ。
それからというもの、「す組」の火けし「す組」の火けしって、火事がおきるたびにおよびがかかり、そのたびにわかいもんが「す組」のはたひったてて、竜越をひっかついでとんでいったんだ。
めったに火事などあるもんじゃないが、そのはたらきっぷりは、たいしたもんじゃった。
むすめっこの中には、「す組」のわかいもんでなけりゃ、よめにいかねえっていうのがおったくらいだからね。
小金井橋の郷土館に「す組」とかいた赤いはたと竜越(竜吐水)が今でもたいせつに、ほぞんされておる。
(再話・今井 美代子)