5 地名にかかわる伝説

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 伝説は昔話と違い、一般的には固有名詞(たとえば特定の人名や地名など)がかかわる形で伝えられてきたものとされている。その意味では、これまで紹介した話もなんらかの形で特定の人名や地名が含まれており「昔話」とはいえないであろうが、小平には地名伝説も多く残っており、これには小川新田が拓かれる以前の物語が織りこまれている例が多い。第一章で巨人ダイダラボッチの話にふれたが、こうした地名に関する伝説は、『郷土こだいら』の「口碑伝説」の項に整理、紹介されている。以下、聞書きによる説明を補足しつつ、その要約を示しておく。
図11-1
図11-1
かつての鎌倉街道の景観 宮本常一氏撮影 周防大島文化交流センター所蔵 小川町(1966.10)

図11-2
図11-2 地名にかかわる伝説のおおよその位置関係
A二つ塚 B石塔が窪 C迷いの桜 Dまいまいず井戸 E一本榎 F幕張り G白山さま

 
●二つ塚(図11-2 A)
 旧鎌倉街道が、上水本町から玉川上水にかかろうとする手前右側に、「二つ塚」と呼ぶ地名がある。この「二つ塚」は国分寺市のこの街道沿いに残る一里塚からちょうど一里の地点にあり、その昔、旅人に道程を知らせた、旧鎌倉街道十三塚のうちの一つであると言われる。
 この由緒ある「二つ塚」も近年まで、土盛りされた二つの塚が、僅かに昔の面影を残していたが、民家の屋敷内のため、いつしかその姿が消え失せてしまい、今は地名のみになってしまった。
 なお、この二つ塚については、小川町の大正十年生まれの男性が次のように語っていた。
「鎌倉橋を渡って少し西へいった所でしょ。私の友達があの近くにいて、昔は小さい塚が二つあったなんて言ってました。今はもう何にもないですよ。家がたったりして。」
 
●石塔が窪(図11-2 B)
 鎌倉街道と青梅街道との交差するところ、鎌倉街道を北に百メートルほど入ったところに、「石塔が窪」という地名(小川町二丁目)がある。小川九郎兵衛が最初に開拓の鍬をおろしたのがこの地点で、小川村の開発はここから始まったと伝えられている。
 明暦二年、九郎兵衛が、開拓の許可を得た地域は、西は玉川上水と野火止用水の分水口の地点から、この両用水の内側を三角形に、一本榎に至る広大なる地域であり、九郎兵衛が開拓に着手するまでは、飲み水が容易にえられないところで、人の住みにくい土地であった。この荒野に、南北に鎌倉街道、東西に青梅街道(成木街道)の二本の道が通じていた。「石塔が窪」は、この二つの街道の交叉する地点の、鎌倉街道沿いで、当時としては交通上の要所であった。
 この地を「石塔が窪」というのは、江戸末期まで、この地に、秩父青石のかなり大きな石碑が立っていたからだという。しかしこの石碑も、いつの時代にかどこかへ運び去られ、今は地名が残っているにすぎない。
 伝えられるところによれば、幕末から明治の初期にかけて、府中の六所祭りの神輿かつぎに参加した若者達が、帰り道にその余勢を駆ってこれをかつぎ出し、毎年かつぎ運ばれて、いつの間にか東村山の久米川に至り、同地の名刹、正福寺(東村山市)の参道の石橋(念仏橋)に長らく使用されていたという。現在は掘り起こされ、同寺境内の一隅にすえられている。これが「石塔が窪」の地名に残る石碑であるというも、その真偽の程は明瞭でない。
 
●迷いの桜(図11-2 C)
 所沢街道が、小平市と東村山市と境するところに、「九道の辻」という地名がある。この「九道の辻」の名は、その昔、鎌倉街道、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道がこの地点で、交叉していたところから生れたものだといい、往時は交通の要所であった。
 この「九道の辻」の一角に、一本の桜の老樹があった。季節には見事な花をつけて、往来の人の目を楽しませてきた。
 この迷いの桜の名称について、伝えられるところによれば、その起源は古く、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞が、後醍醐天皇から、鎌倉幕府討伐の命を受け、野州(現群馬県)から兵を起こして、鎌倉に攻めのぼる途中、久米川の戦いで北条軍を破り、これを急追してこの「九道の辻」にさしかかった時、道が九筋に分れており、どれが鎌倉への道であるか迷った。義貞は後日また、余と同様に迷うものがあるだろうと、鎌倉街道の一角に、一本の桜を植え、鎌倉街道への道しるべにした。それが、この迷いの桜の起源であると伝えられる。その後この桜は、幾度か植え継がれたのであろう。その何代目かの桜が、大正の頃枯死して、終戦後まで大きな根株が残っていたが、今は全くその跡もない。
 この迷いの桜と並んで、樹齢数百年を経たと思われる榎の大樹が、僅かに往時の名残りをとどめていたが、これも枯死して、今は根株すら残っていない。案内板が残っているのみである。
 
●まいまいず井戸(図11-2 D)
 小平市の鎌倉街道沿いには、二か所に、まいまいず井戸があったと伝えられる。その一つは、ブリヂストン東京工場の敷地内に、いま一つは、鷹野道の南、津田塾大学の東側にあったといわれる。
 まいまいず井戸は別名「すり鉢井戸」ともいわれ、さし渡し、二十メートルから三十メートル位の地面を、すり鉢形に地下水の湧き出るまで堀り下げたもので、武蔵野に多くみられた形の井戸である。
 なおこれについて天神町の昭和七年生まれの男性は次のように語っていた。
「鷹の街道の南っ側、そう津田塾大学のちょっと東の畠の中の辺り。子どもの頃あの近くの畑道でよく遊んでいたんだ。友達がいてね。ちょっと色の変った小石が沢山散らばっていたのを見た覚えがありました。」
 
●一本榎(図11-2 E)
 仲町の、青梅街道沿いの奥まったところに、宝永元年(一七〇四)九月の遷祀の鎮守熊野宮がある。この宮の別名を一本榎神社ともいう。この宮の遷祀以前から、この地に一本の榎の大樹があった。そのたけ、群を抜いて高く、鎌倉街道まで、西方一キロを隔てていたが、遠くこれを眺められたという。往時は、この地一帯を「逃水の里」とも称され、通路とおぼしきものもなく、広漠たる原野の中にそびえ立つこの大樹は、「武蔵野の一本榎」と呼ばれて、往来する旅人の目じるしとして親しまれていたと伝えられる。
 明暦二年(一六五六)、小川九郎兵衛が幕府に、小川村の開拓を願い出た地域の、東の線を、この一本榎として示されている点からしても、地名らしきものがなかったその頃には、この一本榎が、地名の代名詞として呼ばれていたものと思われる。
 この一本榎の口碑によれば、この地に熊野宮にまつられた、宝永の頃、既に樹齢数百年を経た大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は、二百数十メートルにおよび、盛夏の炎天下でも、この樹の下には絶えず、清らかな涼風があったと伝えられるが、この大樹も、寛保の頃、樹令つき、枯死してその影を没したのである。
 幸いに、その子木であると言い伝えられた、目通り七尺もある空洞になった大木が、代ってそびえ立っていたが、大正十三年九月の大暴風雨に倒壊してしまった。しかしその傍に、樹令三十年位と思われる、第三の子木がある。昭和四十一年九月の二十六号台風のために、境内の樹木をはじめ、社殿など大被害を受けたが幸いこの木はその難をまぬがれている。
 
●幕張り(図11-2 F)
 鷹野街道と鎌倉街道との交叉地点の西、鷹野街道に北面した、約五町歩の地名を幕張りという。この幕張りの地名は、徳川御三家の一つである、尾張大納言が、鷹狩りの際、この地で上覧された跡地であるともいい、また、上覧の場に指定された地名であるともいう。
 市の中央を、東西に通ずる鷹野街道は、鷹狩りの道中道である。尾張藩の鷹場は、諸大名の所有する鷹場の中でも最も広く、入間、新座、多摩の三郡にわたっていた。

 なお、鷹狩りについては、『小平むかしむかし』に以下のような口碑としてまとめられている。
 
●お鷹場のこと
 すこしむかし、このあたりは尾張のとのさまのお鷹場だった。
 鷹場っていうのは、かいならした鷹をつかって、かりをするばしょのこと、今でも市やくしょの南がわのみちは、鷹のみちってよばれている。
 とのさまが大ぜいのけらいをしたがえてやってきたみちなんだ。そこをまっすぐ西にいって府中かいどうとぶつかったあたりは幕張とよばれ、とのさまがまくの中で鷹がりをごらんになったところだという。
 鷹がりというのは、かいならした鷹を野山にはなち、生きた小とりやうさぎをつかまえるあそびのようなものじや。
 ところが鷹ばになるところの村の人たちにとっては、大ごとだった。
 きびしいごはっとがいっぱいあって、いつもなさけねえ思いをしていたんだ。
 きくところによると、尾張のとのさまは江戸の北西百八十か村にもわたって、ひろいお鷹ばをもっておられたという。小川村もそのひとつだった。
 けれどもこのあたりには、めったにとのさまのおなりはなかった。それだけに鷹ばのごはっとというのは、村の人たちにとって、しゃくのたねだったさ。
 うさぎやきつねを、かってにおっぱらうこともできなかったし、かかしひとつおったてるにも、きめられた日までに、ねがいしょを出さねばならなかった。
 水車のなおしや、やしきのたてかえ、とりをかうにもねがいしょを出さねばならなかった。
 まして、てっぽうなど持っておったりしたら、とんでもないことだった。
 それだから、たえず鷹ばあずかりやくの名ぬしさまや、鳥見やくにんの目がひかっていた。
「あしたは鳥見やくにんさまがきなさるぞ。」
 とふれがまわると、馬ややどをよういしなけりゃならなかった。ましてや
「鷹がりにとのさまがおなりになる。」
 とふれが出ると、
「それ、みちすじやわきみちの、いばらきりおとしてあるか。」
「はしは、だいじょうぶか。」
「ねこやいぬを、はなしてはなんねぇぞ、つないどけ。」
 と、村じゅう大さわぎになった。
 あるとき、上水の土手の下草が、そろそろあかくなりはじめたころじゃった。
 山家あたりの子どもが、はたけをあらしにきていたうさぎを
「こら、まて。」
 って、とっつかまえたんだ。
 にげようとしたうさぎを、ぼうきれでぶったたいたからたまんねえ。うさぎはあっけなくしんでしまった。
 だあれもしらなかったら、ことはおこらなかったんじゃが、いじのわるいやつにめっかってしまった。
 そいつが、村にきておった鳥見やくにんにいいつけたんだ。なにしろ、うったえ出るとほうびがもらえることになっとったからな。
 さあ、たいへんじゃ。
 その子どものあんちゃが、さっそく名ぬしさまのおやしきにひったてられ、きびしいおとりしらべがあった。
「あいつは、ころそうと思ってやったことじゃねえです。」
 って、いくらもうしひらきをしても、それはうけつけられず、
「鷹ばの中でのせっしょうはならぬ、というおきてがあるのに、ふとどきなやつじや。」
 と、おとがめをうけた。
 そんなことがあって、まもなくそのあんちゃは、どこへいったかわからぬようになった。
 そうして、その子どもとおっかあは、日のあるうちは村の中では、あまり見かけず、ひっそりとくらすようになったという。

(再話・今井 美代子)


 
●白山さま(図11-2 G、『小平むかしむかし』より)
 鈴木いなりの東のとりいを出ると、すじむかいのみちばたに、ひげをたらした一尺(三十せんち)くらいの石のかみさまがすわっておられる。
 まわりをへいにかこまれ、その中にだまってすわっておられるので、うっかりするととおりすぎてしまうことさえある。
 よく見ると、まゆの先があがっていて、にが虫をかみつぶしたようなかおをしておるが、どうしてなかなかご利益があるんだと。
 いつのころから、そこにそうしておられたか、さだかではないが、「白山さま」とよばれて、村の人たちにたいそうたよりにされていた。
 というのは、歯がいたいときに、じぶんのつかっていたはしを白山さまにおそなえし、かわりに、そこにあがっているはぎのはしをさげてきてつかうんだと。
 そうするとふしぎなことに、ぴたりといたみがとまる。だからなおった人は、おれいにはぎのえだではしを作っておそなえしたんだ。
 むかしは、いしゃさまは村になんにんもいなかったし、村の人たちはあんまり金もってなかったから、めったにみてもらえなかった。死ぬような大びょうの人か、おだいじんくらいしか、いしゃさまにみてもらわなかった。
 そんなだったから、歯いたなんど、びょうきのうちじゃなかっただ。
「いたくてがまんできねえ。」
 なんてなきっつらしとると、
「にわのうめの木の下のゆきのしたを、しおでもんでつめてみろ。」
 と、ばあさまにいわれたもんだ。
「鈴木いなりのそばの白山さまにいって、はぎのはしをもらってこい。」
 と、じいさまにいわれたもんだ。
 はしをしっかりにぎって、ほっぺたおさえた子が、鈴木いなりのとりいをぬけてはしっていくのを、よく見かけたよ。
 だから、白山さまのまえに、いつもはぎのはしがたんとあがっとっただ。

(再話・今井 美代子)