玉川上水を守る会・会報『玉川上水』創刊号(昭和五十年二月一日)より 地元の方を訪ねて(その一) 清水忠次郎老は語る

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 一月十二日夕刻、松井・庄司が突然清水さん宅を訪ねましたところ、快よくお引き受け下され、大いに語って頂きました。以下…
 そもそも小川新田は小川村を親村として、名主、小川弥市郎によって開かれ(現仲町)更に新田の山家(さんや)として生まれた所がここなのです。(現喜平町)ですから大字小川新田字山家と呼んでいました。
 この辺には水車(斉藤・吉沢両氏)があって、我が家にも小平分水を利用して桜橋病院の近くに大きな水車小屋があった。今も水路跡がそれとなくわかる程度に残っていますよ。鷹の台の小島精米店の水車も大きい方でありますが、私のところは半径九尺・臼が二個、杵十本、水流巾を広げて落差が強くなるように考えたのです。
 農作物は主に小麦・ひえ・そば・陸稲などですから今日で言えば精粉工場の役目を果たしていたわけです。
 知っての通り飲料水にはほとほと困り、井戸の深さは六十余尺のつるべ井戸(今はポンプ)でその労力は玉川上水から水桶で汲み上げ天秤で担いで来る早さと同じ程で実に大変だったんですよ。明治初年頃になってできた新堀用水(旧用水とは違う水路)のため井戸は使われなくなったんです。
 それから保桜会という会があって、花見時には桜の木に電灯を吊し、夜桜と洒落込み、仮装行列の催しもあり、夜店も出て二週間もの間それはそれは賑わったものです。
 その華やかさは中央線に武蔵小金井駅ができてからというもの全く廃れてしまったのです。
 この近くにある(桜橋から西約二〇〇米)一位の木は大正の初め頃に植樹したものなのです。またひと抱えもある老木のクヌ木は樹令百年は過ぎています。これも又植林によるものなのです。十五年も経てば薪にすることができるし、然しナラの木は自生のもので十五年程度ではモノにならないのです。まあこのような景観はこれ以上形を変えないで保存したいものですよ。上水緑道事業ということでやっているようですが、それには充分に手入れをし、管理を万全にすることですよ。だが今日では玉川上水の意味(歴史)が余りにも知らない人が多く(特に団地の)心ない人達の投げ棄てるゴミ(テレビ・布団・材木)といわれないゴミには腹立たしさを覚えます。年々枯れ果てる老桜木をみるにつけ今昔、隔世の感を強くしている者です。然し乍らカワニラ(カニラ)を主食に生棲している蛍が昨年も上水辺りで四・五匹であれ飛び交う風情は一服の清涼を与えてくれるのも又事実ですから…

(文責 庄司)