●同 第二号(昭和五十年七月一日)より 地元の方を訪ねて(その二) 金子博氏 大いに語る

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 金子氏は当一一代目(約二六〇年続く)で在郷軍人会長、消防団長、自治会長等を歴任され、四〇代からは好きな道である郷土の歴史を模索することを専らにし、「小平町誌」「郷土こだいら」等の編纂に郷土研究会長としてタッチされ傍ら小川寺檀家総代を勤めること三〇年、サラリーマン経験のないままに現在に至っている方である。
 氏曰く、この上宿にある小川寺は文政二年(一八一九年)に焼け、更に明治二二年、隣にあった茶屋のおかみの放火により焼失、過去帳も灰となり墓石に刻まれた年号や戒名によって墓の整理をすると共に過去帳の復元をみたのである。現在の小川寺は大正五年に再建されたものである。ここ上宿、中宿、坂、窪、下宿というのは単なる部落名であってこれぞといった意味はない。その後、一番、二番、三番と砂川式に区分されたがその時期等は目下の所不明である。名主の家にも確たる資料のないままに今日まで続き隣の三番と、ここ二番とでは冠婚葬祭の様式や近所の交渉にも若干の相異がみられ、それが老人クラブの会合などには具体的に表面化することなどもあって、その様なシキタリについて今後まとめてみるつもりですすめている。
 まあこの辺では強いて記憶に残る程の民話とか、昔話とかは別にないが、田舎の小屋掛芝居で「かわかみの仇討」を覚えている程度のものである。
 小平という地形は「スコップ」の形に似ている。一中の辺が南北に拡がり七つの新田より成っている。
 では、小平という地名については小川の「小」の字をとって平和に仲良く生きようという意味で「平」をとり「小平」の誕生をみたのである(明治二五年)。
 庭先を通っている小川分水は一番から新堀用水と別れ更に神明宮の所でも分岐し青梅街道を挟み、我々一般の洗顔、飲料水、野菜洗いなど貴重な用水であった。然し一端、大雨による濁水に悩まされると大変でその苦労から○○番組というような共同井戸を開削し、女の人が水汲みの役目で天秤や桶やカメに約二日分の飲料水を貯めたものである。当時の分水には魚も泳いでいたのである。
 だが忘れもしない大正六年には「赤痢」が発生し、保菌者からの食器洗い、洗濯などによって下流の者に感染し小川で八、九〇人のお弔いを出した程の凄さだった。その頃は伝染病と思われる患者には一応近所の医者に診てもらい、手におえなくなると川越まで運ばざるを得ない状況で全快して帰れる患者は三分の一程度であった。
 村内に病の多い年を憂い厄払いとして神明宮のお輿を担ごうということで大正九年八月一五日久々で担いだまではよかったが勢い余って夜の一一、一二時頃に終る為神主の怒りに触れ神倉に入れて入口を狭くして、保管してしまった。然し戦後、復活し進駐軍との出合い、お輿の修復などがあって現在では四〇年以来、毎年四月二九日と日を定め、リヤカーに乗せて一地区毎に、祝詞、玉串、ご寄付等を求め、朝九時に出発し一〇地区を巡回するのに午後五時位までかかるのである。来年から正式のお輿担ぎをする予定にしている。
 ここで、二、三箇条書的にまとめてみると、
(一)小島精米屋は兄が東村山で水車屋をしておってその弟が始めたことによるもので現在三代目ということになる。当時の粉屋と正業は西武線の西方、野中新田、国分寺の一部を対象にしていた。
(二)カシの木は火を吹くといわれ火の風向を変えるので屋敷林として植えたものである。又北面の欅の砂防の役を果す反面マネーの成る木であり、落葉が茅葺き屋根をいためるのでこの辺では東西に屋根の分かれている家屋が多いのである。
(三)協同学舎といって妙法寺が学校(現在小平一小の地)で小川寺派と争いがあり、中をうまくとりもった住職が国分寺高校入口四ッ角、五日市街道の所に妙法寺を移転し、それに付随して川崎平右ェ門の謝恩塔も移され新田八三ヶ所の総意の碑が建っているのである。
(四)我が家はもと酒造業をしておった関係で水車屋もあり原料は陸稲で酒造、小麦や大麦が常食で小麦で造ったネジリンボウを食べ、祖父母は多少のお米を食べておったが我々子供の頃はお盆と正月か祝い事とか限られた時にしか食べなかったものである。
 今まで色々話をしましたが、最後に今度、市役所から一五〇万の予算が裏付けされて資料館を造るべく仮倉庫の中に約二千点の民具や図書館には古文書などが保管してあり、図書目録の作成は明大の渡辺先生と私等でまとめ小平町誌にも役立て、型破りの古代から近代への史実を記載したユニークな市誌として誇りに足るものである。その姉妹編としてわかり易さをモットーに郷土こだいらを編纂したのである。近い将来の構想としては単なる小平市だけの資料館ではなく生活様式を同じくした大和市、村山市、田無市等の共同管理による合理的な運営をし広大な敷地を生かし憩いの場所も兼ね備え、既設の見せるだけの資料、保管のための機能から脱皮し、目で見、手で触れることが出来、研修資料に供することも出来るそんな所に目標をおいて四市合同資料館の設立を目指し日夜そのことの実現に夢を抱いているのである。以上
 紙面の関係で数々の記載すべき事柄も割愛させ戴いたことを深くお詫びすると共に、何卒ご寛容下さらん事を。

(聞き手 松井・正木・庄司…文責 庄司)