水の事で想い出されるのは、屋敷の北側を通る飲料水路で昭和四年頃だったかチブスが流行し、その被害地区の下宿七番で十数人が隔離され川越に運ばれたんですよ。
そこで我々の地区は北側分水路の利用者なんだが、七番の子供達は登校しちゃいかんというので約二週間程そのトバッチリを受け遊んでましたよ。
まあ、この七番は一番地区と比較して生活レベルが低いために、当時、蝋燭や堤燈による燈光利用のため、火災が多発し、その防火のために消防ポンプを購入することになったんだが明治四十三年ですね、それは。所でそれを求めるだけの資力がないばっかりに、山王神社及び社有地等の処分を余儀なくされたんです(現在小平警察署の在る所は社領であった)。そこで小川雹明宮に合祀し今日に至っているんです。
一説には小平は小川九郎兵衛を開祖といわれているがすぐ近くの石屋(小川家)が旦那様といわれ新屋で通って来たが、五、六年前改築した折、小川九郎兵衛よりも古い資料が発見されたんですよ。又、現在、自動車の中古品などを取扱っている内山家が一番古いといわれており、当時九郎兵衛がその前を通る時は下馬して通過したそうです。開拓以前からあったものだとは私の父も祖父もいってましたよ。それに小川寺を調べても内山さんが最古の家であるといってます。馬継場は私の家の前で小平では道巾の最も広い場所で、その旨、市教育委員会でその由来を表示してありますよ。
ブリヂストンが建つ以前にはその敷地内の鎌倉街道筋にマイマイズの井戸があって子供の頃には螺旋状の周囲を回って遊んだもんですよ。ですからそこにあった江戸街道は青梅街道より古い筈だと思いますね。又、ここは山王の野水といって桑畠が埋没する程に水位が上り、北側の畠にも若干の野水が出て、西瓜が浮かぶ光景なども覚えてますよ。
まあ家のことになりますが、切込み隊(一揆のこと)が来る場合に備え二重の格子戸があって中敷といって勝手口の動きとか、火事などの早期発見の火の見窓でもあったといわれてます。生活の知恵とでもいいましょうかね。戸袋、縁側のカコミ板等は総て欅板に彫刻を施し工人は川越の人だとか聞いてます。それに府中大国魂神社の手洗いの所にある金網に覆われている彫刻も同一人であるとか伺ってます。自分の小さい頃から戦中にかけてさつまいもを当時毎日一車仙台に送っており、立川の「二」とか「鈴春」のさつま問屋へ牛車で出荷しておったんです。
戦争中は年寄り二人と女子供だけになり三階建の我が家は経理学校(今の警察学校、測量学校)の将校達の宿泊所となっている時、焼夷弾が庭先に落下し、柱の所々に傷跡が今も残っています。養蚕は百貫匁位は出荷していましたよ。畑は二町歩程あったのが太平洋戦争による食糧増産のため、農作物に転作させられ、中島飛行場へ桑の堀り越した根や幹などを燃料の保給にトラック十数台も運搬した様でしたよ。
この地区には鎌倉街道が北側で二手に別れてそこへ行く迄に十二の曲った道(十二曲り)があってブリヂストンの所を通って当時は正にジャングルの様だったんです。それは弓矢が届く距離を限度に曲がりくねって造られているのです。まあ軍道としての役割も果していたんじゃないかと思いますね。げんざいも残ってますしね。最近穴が発見され調べてみると鎌倉街道の曲った角に武士の待避所か、屯所的(待機)な役割を果したものか、穴の実体を調べるつもりでいますよ。
ところでこの辺には上野の戦争後移住した人々が案外多いんですよ。落花生屋、玉子屋、仕方屋、紺屋、提燈屋、鍋屋などの生業を営んでいたんです。
まあ、水車の話をしますとね、小学校頃までは青木さんの隣に床屋(現在)のあるそばに車大工さんがいて荷車を作ったり、材料は樫、椚のキネなどで作り、その後三鷹へ引越したという事でどうなったことか。又、それに関連して申上げますと、当時農耕器具類は今も保存してありますし、小学生が社会科見学だといってよく見に来ましたよ。まだまだ多く残っていますし、写真、保管等今のうちにやらんと散逸しちゃいますね。
そうそう養蚕の盛んだった頃は、村山村、大和村、東村山等から養蚕の季節になるとその都度働きに来ていましたね(蚕屋さんという)。その時期以外は村山銘仙を作る副業をしミツマタによる和紙造りなどをしていたのを記憶しておりますね。……番傘、提燈、障子紙……。
父が寄贈した歌碑が小川寺にありますのでごらんくださいよ。「何事も、おいて参れよ小川寺 くる災難も逃げ水の里」又、子供時分から聞かされた歌に「恋しければ訪ね来てみよ武蔵野の国、武州多摩領小川寺」
まあこんなところでしょうか。
紙面の都合で割愛させて頂いたことを深く感謝し、自然保護に活躍されん事を祈じます。(五一・三・七)
(聞き手 織田・庄司…文責 庄司)