●同 第四号(昭和五十二年十二月十六日)より 地元の方を訪ねて(その四) 小野弥十郎氏大いに語る

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 初代は寛文三年(一六六三年)根古坂に小野家を興し、爾来三百十四年第八代目の当主で、戦時中、小川寺に疎開した児童への尽力により表彰を受け、戦後は町議、市議等を経、専ら中央消防署副会長として活躍されており、幾多の表彰の栄を飾られ、雹明宮の世話役としても、永いことタッチされている。
 私は、明治三十七年(七三年前)四月一日、六才で第一小平尋常小学校(現在一小)に入学、元妙法寺(現在国分寺高校通り五日市街道出口西角)がその学校であり勿論寺子屋式のお粗末なものであった。
 当時の青梅街道は小砂利を敷き、荷馬車は金輪の車人が運ぶ荷は大八車といって矢張り金輪で出来ており、今日のように交通事故の心配もなく、学校の入口は道巾約二間、樹令二〇〇年を越す欅の大木に覆われ、玉川上水より分水した小川は青梅街道を挟んで両側に流れており飲料水として使用していたのである。
 妙法寺改造の古教室には一年から四年生までの複式授業で別に補修科というのもありました。私達は尋常で一旦卒業し学制改革(明治四十年)によって六年制となり、小学校の卒業免許状が二枚もらえることになったのです。
 当時の小学生の服装は紺のカスリの着物か、目くらじまという真黒な着物、冬は合袷に筒そでの半天、足袋などは古い物に共ギレを当て、下駄か駒下駄などの粗末なもので山桐という履物を多く用いていた。
 教科書は和紙で出来ており二つ折りで中が袋のようになっており一枚をめくるとハタ、タコ、コマなど、二年生からは「いろはにほへと……」を習い、石盤と石筆で練習をし、寒い冬などは自分の吐く息で石盤の文字がよく消えることがあったりして非常に困ったことがありました。その後、二、三年して紙石盤という三ツ折四ツ折りのものが出来便利になりました。毛筆は三年生からで紙は非常に大切なもので一枚の紙に白い所がない程に書くように指導されました。四年生からは算盤、体操は素足のまま冬は竹草履といういでたちでした。
 足を洗うのは三尺に九尺の木の水槽、飲料水は樽で水をこし大ガメに入れた水で学校には水がないので毎日小川分水を使用したのです。
 遠足はというと一年生の時は青梅橋の所にあった丸山台といって古木の桜並木であった場所、二年の時は小金井の桜見学、三年には府中の大国魂神社と龍講寺、四年次には百草勝連寺というように年一回の楽しい行事の一つでした。教科書などは風呂敷に包み右肩からハスに背中に背負い左脇を結んで登校、当時の気候は今日よりも非常に寒く、五、六度の差があったようです。
 手袋はメリヤス製、稀にみる毛糸製、遠足の弁当は米の握りは滅多になく、ほとんどは特産の甘藷二、三本程度、それを風呂敷に包み腰に巻き付けてゆく有様でした。
 登校の際には小川一番から八番までそれぞれ組長がおって二列左側通行、集合場所を一ヶ所に決め人員の点呼、員数が足りない場合は事故か病気か等を調べ出席簿に記入し目印の旗を先頭に整然と登校したものである。
 先ほどの明治四十年学制改革によって教師が不足し当時の高等小学校の生徒を代用教員として採用したのです。また六年生の我々は二、三年生へ先生に代って教育をしたようなこともありました。
 私達は六年生になり初めて七教室の平家建の校舎が出来、新校舎で学ぶ喜びを充分に味うことができたのです。
 それは明治四十二年、小平村立の第一小川尋常小学校であり現在、小平市立第一小学校に引き継がれていくのです。私は小平第一小学校の第一回の卒業生でそれは明治四十三年三月二十五日のことなのです。

(文責 庄司)