●同 第五号(昭和五十三年十二月二十一日)より 地元の方を訪ねて(その五) 斉藤勇輔氏大いに語る

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 現在、第八代目の当主で、消防団長を皮切りに、町議会議員二期、庭木育てと造園業を営み、小平市に初の植木市場の設営、花いっぱい運動の初代会長、一〇数年来福祉関係にタッチし、現在老人福祉会副会長として現役でご活躍中、余技として盆栽は玄人筋、愛鉢大小共に約二〇〇鉢余を管理。
 家の北側を流れている分水は立川分水から分れたものでその流末が深大寺まであったことから深大寺分水として昭和一二、三年頃まで使用し水量も豊富で綺麗な水であったんです。最初は砂川村外七ヶ村で管理していたが深大寺村で水稲を作っていたが後で水利権を放棄(年代不詳)した為、それぞれの区域で分水の管理を負うように変って来たんです。
 ここの鈴木新田字「上」という「上」は昔は京都がその基点であったことから西の方を上としたことから、砂川一番、二番、小川一番、二番という番地の呼称を西方が、東方へ位置付けた様になっているのです。
 まあなんですね、桜橋を渡っている西武鉄道の多摩湖線のことですが、箱根土地会社が大正一二年から買収を始め大正一四年(一九二五年)今の小平学園六〇万坪の分譲を開始しいずれの場所も一坪「三円」の均一で売り資料出したことにはじまるのです。後日、鉄道を敷設することを考えて国分寺〇番の所から萩山まで道路の巾を約八間として北進したのです。その八間巾の一部を路線が占有し現在みるような形になっているんです。此の鉄道は村山貯水池の多摩湖から採って名付けたもので昭和三年四月、開通。当時は二両連結の車輌で四二人乗り、殆ど乗客もなく、人の走るのと同じスピード程度のものだったんです。
 参考までに話をしますと旧五日市入口の所に小川水衛所(昭和二五、六年頃まで)がありましてね、普通の落葉、流水等のゴミ収荷をその仕事としているのですが、そうですね、年間五、六体の水死者が上ることがあるのです。その都度、役場の民生課の担当者立合いで、身元を確認し、身元判明者には引き渡し、無縁仏に対しては仲町にある「平安院」(これは小川寺の分院で元文四年…一七三九年…に建てた)に手厚く葬るのを習わしとしていたんです。埋葬してから後見人が判明し再度掘り返えしたようなことも御座居ましたね。
 又ここから東へ百米程の所に荒畑さんの経営するガソリンスタンドの所に「水車屋」があり当時この上鈴木の農家四十戸の精粉、精米等を一手に引き受けてやっておったのです。現在ある鷹の台駅から突当る水車通りの道路に面した小島精米屋さんの現主人の祖父に当る小島啓助氏が最初、この荒畑水車を借り受けて仕事をしておったんですよ。そして明治九年、名主小川家の所有であった水車屋(主家の西側)を買い受け独立し現在に至っているという訳なんです。その荒畑水車屋は府中から来た石坂さんに代り、その後高橋さんが引き受けてやっておったのです。
 大きい石臼三個、杵は十本位と思いましたね。我々の食生活は戦前までは今日とは比較にならん程のもので殆どが麦と陸稲との混合で、米は一割もあれば上等で貴重品扱いでしたし、まま口にすることの出来る魚も乾魚、塩漬の魚の行商もありましたが魚を食べる余裕すらなかったというのがどうも本音のようですね。ついでに食べ物についていいますとね、あの敗戦後の深刻な食糧不足の二、三年間は主食の米のかわりとして貴重であった「サツマイモ」お金では買えずタンスの中の衣類と交換という方法で求め、その時期この小平は農業が主体であり買い出しの供給処として一役も二役もしたこともあったのですよ。当時の農家も食糧メーデー、米よこせ運動等に反映しているように厳しい供出の割当制があって、その残りが自家用、又、その残りが買い出し用に供するということでヤミ売り、ヤミ買いが横行した当時を想い起し、現在の食生活の変貌ぶりは隔世の感、一入というところです。

(文責 庄司)