●同 第七号(昭和五十一年十二月二十四日)より 地元の方を訪ねて(その六) 清水治助氏大いに語る

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 現在ここの地主は第二代目なるもこの会報の創刊号を飾った清水忠治郎氏宅はその本家に当り、忠治郎氏の叔父、平八郎氏が初代で水車屋を営みその娘さんの御主人で会社員、前庭の景観を生かすべく文化財ともいうべき水路の跡を巧みに生かしている。
 ここは桜橋にほど近く利根導水路の幹線が敷設してある北側道路を西に入ること約五〇米、新堀用水(田無用水)を遊水して水車屋として生計を営み、昭和二三年頃まで操業をしておったんですよ。
 最初初代の平八は実家の水車屋を手伝うということだったんですがそのうちに生業化することになり分家をしたような訳なんです
 実は明治三二年二月から水車屋を始めたんですが、その間いくたの変遷を経たことと思いますが、ここにある文書で見る限り大正一〇年三月三〇日付で「水力使用精米麦工場設置願」を府中警察署田無分署へ警視総監、岡喜七郎宛に申請書の提出をしたのです。その書類に記載してある主な構造仕様書をピクアップすると一、米麦の精白、二、原動機は木製で使用器械は杵搗精米麦機、杵は四寸角、長さ九尺、重量は一〇貫目で欅材、臼は松材で二斗張り一〇個などとなっておりますし、又 毎日の作業時間は午前六時~午後の八時までという一四時間、家屋、作業所の図面も添付といった具合です。
 今度は昭和四年五月一〇日工場増築・機械増設の願書、昭和八年四月、一二年一月、一三年六月九日というように増築、機械の廃止届及び新設置等の一部変更願いを申請しておるんです。それによると○常時使用する職工数は男二人、女一人その他の従業者女一名、○原動機-水車は一馬力一個、○機械設備-搗杵一〇個、搗臼一〇個等であり、唐箕一個及び割臼一個は廃止し、それに代わるものとして不二式精麦機一台の位置を変更し、更に佐竹式精麦機一個を増設するという内容の願書になっておるんです。
 新小川橋の所には小島精米麦所の水車屋がありましたし、此の辺は矢張り山家という地域ですから国分寺の一部と、津田塾大までと青梅街道筋の小川八番ぐらいまでの範囲の農家で穫れた穀類の精白をするようになっておったようですよ。その頃の挽き賃についての詳しい台帳等は現在の家屋に建て替えた折に燃したりしてありませんね。水車屋当時は東向きであり母屋は三分の一を占めあとは作業場が占有しておったんです。勿論、水車屋の増、改築の資材は本家の古材を活用したものなんです。
 当時の屋根は茅と麦柄の混用であまり耐久性がなく屋根葺の時に使うしばり竹を確保する為の竹林の場所を持つことも大変であり、玉川上水の土手にある茅などは名主クラスか組頭のランクの者でなければ縄張りがあって勝手に刈り取ることすらできない有様だったんですね。
 だから金円によって譲り受けるか、西武の狭山保線区に酒二升程度を持参し沿線上に生い茂っている茅の刈り取りをさせて貰うかして確保した覚えがありますよ。ですから普段の農作業のつるの手などには勿体なくて細木でまに合わせるという程に竹を大切にしたもんです。
 これは思い出話の一つとしてなんですが、子供の頃に聞かされ実際にその場所とかかわったことがあるのですが、それは立川九番から東進する道と鷹の街道(創価小学校南面道路)といって西進する道と寺橋の方から南進する道との三叉路南西角に明治時代頃にあったといわれる番太小屋という臨時派出所で砂川用水や深大寺用水での水死体や雑木林での首吊り自殺者などの検死に立合い無縁仏として葬った場所があった所で現在もその跡がある筈ですね。当時、献花のあったことなども覚えておりますがなんせ怖かったという事が先行したこととして記憶しておりますね。

(文責 庄司)