●同 第八号(昭和五十六年一月二十五日)より 地元の方を訪ねて(その七) 竹内三郎氏大いに語る

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 現在ここの当主は第一四代目で竹内一族の主家に当たり、入植時以来、小平の歴史を日々観察し、体験すること三三〇有年黙して語らぬ゛大けやき″の守り主でもある。
 早速ですが、大けやきは恐らく開拓時の記念樹だと思いますね。三人がかりでようやくのこと手がまわる太さですから、そして今ある中央の穴は、昭和七、八年頃、穴の辺を中心に゛猿の腰掛け″(半円形で固く細工用や薬にもなる)が周囲をとりまき薪割りで切り落したところポッカリ空洞ができておったんです。多分、朽ちたオガクズのようなものを養分としておったんでしょうね。
 また、こんなこともありましたよ。欅材は船の用材としても多く利用されるところから、この大けやきも戦争中軍艦の船材に使うというのであわや徴用されるところだったんですが大き過ぎて伐採することができず、その辺の心境はいかばかりか、今日ある小平唯一の生き証人の確々しき姿をみるにつけ感銘深きものを感じますね。
 ついでのことですが、昭和十八年四月九日、米軍三機が来襲し、藤森さんの近所へ七、八発の爆弾を投下し、更に五月九日頃、今の十二小近辺(当時は畑)から玉川上水方面へと直進上に時限爆弾も含め八十箇位の大きな穴が並んで礫層まで食い込んだところもあってね。それは五月頃ですから黒土が乾燥してフワフワした土埃たるや大変なものだったんです。爆弾の破片はパラパラ落下してくるやら、狙いは前からあった高圧線だったのかも知れませんよ。前庭にある細長い長家のような蚕室は傾いてしまうし、壁は剥離するやら今もその面影を残していますよ。その時は将に暗雲漂う一夜の思いでしたね。その時に玉川上水と新堀用水にも落下しましたんで、その跡が゛大けやき道″の看板がある場所から約三〇米西へ下った所に大きな拡がりがありますね。そこなんです。丁度その場所は新堀用水との地境いですから爆弾の炸裂によって土壌が激震されたために四方八方亀裂が入り新堀用水を修復して真直ぐ引水しようにも水喰い土のような有様で何回か工事を試みたが成功せず、戦後、暫くして土管を埋設(約二〇メートル位)して暗渠化しなければ通水ができないので止むを得ずあのような姿で今日あるわけなんです。
 まあ、私らの主たる農業は昭和十二年頃食糧増産のため桑園を強制的に掘り起こすことになり、さつま、麦等の作付で、お婆さんの若い頃、唯一の現金収入の道でもあり、春蚕、秋、晩秋蚕の三回、多い時で一〇〇gを掃いたものなんですがね。野菜等は自家で適当に荷造りしリヤカーか背負ったりして立川駅東側ガード(市役所通り)手前にあった青果市場へまあなんですね。一時間か早い時で四〇分もあれば運べたもんですよ。荷が多い時は東京へ出荷していましたが、現在は中央高速道、国立インターの所に大きな東京多摩青果南部支部市場が、六、七年前にでき、昭島の天王橋南へ下った所の市場などに集約されましたが、人口の増加の反映なんでしょうね。我々の時代と比較して生活の様式やら、殊に食生活の面では隔世の感がありますね。
 なんといいましょうかね。この家も建てて一五〇年~一六〇年以上たっており、屋根のハリやタルキ等はどこも松の丸太で極めて簡単に荒縄で縛りつけた程度のもので縁側は大正時代に増築したものなんです。柱は総て丁斧で削ってあり古形式の様式であることがわかりますね。
 意識的にハリの材料は曲りくねった物を使い、地震や屋根の重み等を適当に力関係のバランスを考え抜いた生活の知恵なんでしょうね。一昨年暮れ天井をはったんで見えませんが、台所も天井まで突き抜けて高く、真黒な煤で今にも落ちてきそうな状態で幼少の頃は怖いようでした。然し考えてみると荒縄が煤によって強化され、揺さぶりにもビクともしない作用が働くということを考えると今日のハイカラな家屋の建て方は如何なるものなんでしょうね。
 茅葺きの屋根は殆んど今日では見かけませんが、霜のおりない時期で葉が垂れ下らない芽を刈ることが大切で二、三月頃をメドに地元に高橋さんという方がおって屋根葺きをしたものなんです。
 井戸水は最初は重い手押しポンプであり、電動式になったのは十五、六年前からで、それ以前は南を流れる小川用水を使用(昭和四十年頃まで)したり、青梅街道と立川街道の分岐点(小平西給油所)のところに十二人組みの共同井戸があったんですよ。昭和二、三年頃は小川橋近辺は一軒の家屋すらなく、青梅街道北側のみに人家があって、今のコカコーラ会社辺は山口梅吉さんの所有地で小川用水を引いて作っておった(日枝神社西側)のは小川でここ一ヶ所だと思いますね。

(文責 庄司)