●同 第九号(昭和五十七年三月一日)より 地元の方を訪ねて(その八) 鈴木恒吉氏大いに語る

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 現当主は、祖父の代から家業を受継いでの三代目、市内唯一の酒造業者で、商標は「冨久浦」小平が誇る地酒・水車通りの小島精米店主とは同級生とのこと。
 この鈴木酒造工場は青梅街道沿いの南側、小川一番で武蔵美大入口から新宿寄りへ一〇〇米、雑貨、酒類販売店の横を奥に入った所(南入)にある。
 当主曰く、今は私のところ一軒とはなりましたが明治の初期の小平には青梅街道筋(西武線西側)に小川家・金子家・立川家・細田家・濁り酒屋の大久保家などの酒造元があったんです。然し、その殆んどは明治初年頃までの営業で中止してしまいましたね。
 そもそも酒を造る時期というものは通常十一月中旬頃から四月中旬頃まででしてね。冬期間を利用して毎年酒の仕込みの作業をする為に新潟県からやってきますが、その人達のことを「杜氏(とうじ)」というんです。
 明治の頃も、今日もそれは変りなく続いております。
 その人達は酒造主から依頼されたり、口こみなどによる一連の作業仲間として働きにみえる訳です。
 社会問題となっている現在の出稼ぎとは全く異り、良家の子息であって雪に埋れる半年間を他所に出て飯を喰い技術を身につけて集団生活の掟を体験することにもなり更に身上を残す結果ともなる新潟県人独有の働き者ぶりを発揮しているんです。
 私の祖父も杜氏の一人として、二、三の他の場所で経験を積み、当初からリーダー格として金子家(東隣)の酒造りをしており(借りて)明治三〇年頃に譲り受け、種々の条件等がよかったのか此の地を永住の場所と決めたということですね。祖父の出身も新潟県で柏崎市に程近い(直江津寄り)所で、現在、福浦八景県立公園に指定されているその福浦海岸だったことから「福浦」という出生地にゆかりのあることを商標の銘として「富久浦」にしたという事です。
 そうですね。覚えているのは、太平洋戦争中までは金子家の水車屋(臼三ツ)を借用していました。勿論、小川用水ですけれども、この辺は勾配による落差が少なく水力が弱いため杵・臼の数も当然制限されますから小規模の水車しかつくれませんしね。寒い冬なんかは水は凍るしおまけに水車まで何回か運転中止ということもありましたね。
 酒といえば水、水が総ての決め手であるといわれていますが、まあ昭和三〇年頃迄でしょうか、満々と綺麗な小川分水の水を専一に使用しておったんです。
 大正十年頃、井戸を掘って試みてみたんですが、飲料水には適水であったが酒を造るための水としては硬度が低い(5、6度が適水)ので水分に含まれている微妙な要素、発酵を助長し、味をつくり、ふくよかな点などで分水の水、即ち多摩川の水にかないませんでしたね。
 私は昭和六年に此の道に入ったのですが酒を造るなんてよりは酒ができることが先行し、それこそ無我夢中で見様、見真似、酒は自然に水を媒介に発酵するものだと決めてかかり適当に造っていたというのが本音です。
 明治末頃より大手醸造主は精米機を使うようになり昭和の初めになって私の所では酒造専用の堅形を使用しました。その精米機は一般のそれとは違い、米粒の動きがスムーズで糠の剥離が難なくできるようにと考案されたものなんです。ですからその狙いは米の形を崩すことなく精米できるようになっているんです。
 酒造用の米は、醸造に適した産地、品質等一応は吟味はしますがそれ程まで神経質に考えなくともよろしいものなんです。
 こんな話もあったそうです。日露戦争前は不景気であったので酒の販路も思わしくないのでその当時の田村半十郎(福生で代々名主役を勤め現在も酒造業)が大体多摩一円の酒造者を傘下に治め、出資をはじめとして種々面倒をみておったがこの不景気じゃ営業を続けるのも難かしかろうということで継続の有無について巡回相談をしたところ大半の者は中止策を申し出たということであったとか。
 祖父の場合は細々乍ら造っておったが、思案中でもあったとか特に今年は寒いので一つ仕込んでみようかといって続けたことが戦争後の景気も手伝い、それをキッカケとして今日があるんだといえますね。
 嬉しい事の一つとして田無には造り酒屋がなかったことも手伝って正月用の酒などは「富久浦」のファンなどはワザワザ荻窪から荷車や、篭を背負って歩いて来たり、厳冬などには篭に薪を入れ途中で焚火をして暖をとって買いに来たとか、今想えばユーモラスでもあり、生活のテンポのノンビリさも蘇って良き時代が回想されますね。
 昭和十八年、召集を受け満州に亘ることになりますがその当時の国策として醸造業者に対し、営業を継続するか、保留か(空襲による災害者の代行)、廃止かのいずれかが実施されるという矢先の出征だったということで一応保留対象だったんだそうですが如何に今後やっていくかの時間的余裕すらなく廃業することに決め渡満したような次第です。
 幸いにも昭和二〇年九月復員し、当分は畑作でもして凌ごうかということで、戦後の食糧事情の悪化により、この辺の畠作は専らサツマを作り買い出しに来た人々への手助けもできましたし、そんなこんなしているうちに親類に酒類を販売している者が数軒あったことも理由の一つか、再生しようということになり、戦争中、お国の為に製造器、機類が散出(無料ではない供出)しておったものを人づてに求め歩き、ポンプ、モーター、釜などいくつかを戻すことができました。
 最後に醸造という商売柄、戦時中であっても米の制限は割合ゆるやかで、一般の方々とは比較にならない程であり、特に戦前までの小平に住む人々の食生活に比し、心配することなく暮せたことは有難い面でしょうね。
 此の木造の造醸倉は昭和四年の建築したもので凡そ五十数年たってますが十分にその役目を果していますし、私も倉と共に細々ではあっても長く酒造りに精を出したいと思っていますよ。
 探訪する者にとっての冥利が、デキタテの金の泉、「富久浦」を賞味できたことを付言して。

(文責 庄司)