●同 第十号(昭和五十八年二月一日)より 地元の方を訪ねて(九) 小島啓次郎氏大いに語る

840 ~ 842 / 881ページ
 曽祖が始めた家業で、現当主は四代目で祖父からこの地に定住し水車経営から米穀商を営み現在に至る。祖先は名主、組頭として活躍した家柄である。
 この小島米穀店は、鷹の台駅を西に直進し突き当った水車通りに面した所にある。
 そもそも私のところは東村山野口村が出身地でして、小島兵右衛門(曽祖)が荒畑家(深大寺用水に掛けた水車屋で現在小平四中南側)から明治の初期に水車を借り受けて営業したことが発端なんです。それから祖父啓助が明治三九年(一九〇六)小川弥次郎が現在の所で経営していた水車屋を買い取ってようやく一本立したということなんです。ですから父、市之丞はここで生誕し息子で三代目ということになりますね。
 まあご承知かと思いますが、水車への水路は玉川上水から分水して田無用水(別名新堀用水ともいう…小川橋下に小川用水と分かれる水門あり)の水を新小川橋から約一〇〇米上流に当時引水した堰の跡がありますが、そこから水をとっておったんです。現在水車屋の面影をいくらか残しておりますが主屋の西側大きな欅の所にあったんです。
 今、考えれば水車用具を捨ててしまったことや、当時の台帳や、控え帳など紛失したことが残念ですね。然しまあ小島家文書として市図書館で出版(五七・三)していただき記録として残ったことがせめてもの慰めと思ってます。
 水車屋の敷地としては一二〇坪、杵二〇本、挽臼六台、日に二回の精粉といった具合で仕事をしておりました。
 主に小麦、大麦、米(陸稲…一段で三俵平均)粟、ひえなど大正中頃までは挽きが多く、搗が少なかったですね。それに出来上がったものを売ることはできませんで賃稼ぎによって生計を立ておったんです。
 当時の運送は大八車か馬車でしたが、この水車通りは道巾も広く金輪の当る部分には玉石を敷いてぬかるみを防ぎ、多摩川の石では金もかかり、この辺で掘り起こした石を利用したんです。なんでしょう、そうはいっても道の真中は馬の背の様で生い繁った草で雨の日なんかずぶ濡れのままの登下校ということもありましたね。
 チョト奇異に感じられるかも知れませんが食糧難時代といわれた戦中から戦後にかけては寧ろ仕事が忙がしかったんですよ。先程のように私の所は精米・製粉だけで売買はできませんし、せいぜい闇物資流通の手助とそれを傍観しているのみでしたね。
 商売が水車屋であっても配給制度によって米を買って(当時穀商荒井さん…青梅街道から所沢街道に入る右角)食べておった訳ですから。
 父の代の末頃から戦後にかけてボツボツ営業的に先細りになって来たんで水車家業から米穀商を営むため、食糧の統制下であったもんですから開店許可条件としては以前から精米、製粉等をしていること、それに近隣の方々からの承認サインが必要だったんです。
 水力による水車は昭和二五年頃までで戦後電力を利用することができるようになり三〇年頃まで一応仕事はやっておりました。今日ある小島精米店となったのは昭和三四年頃からですね。
 いくらか回顧的になりますが、この新小川橋が昭和五年セメント橋になる以前は橋桁で支えられた櫓組の木橋で厚い平板を渡し、巾二米七〇(九尺)欄干もあって立派なもので馬車も通れる程でしたし、今でも玉石積の土台がみれますよ。
 子供の頃はなんせ一軒家でしたから友達は青梅街道筋にいるだけで遅くなれば怖いこともありましたが、夏などは現在のように学校にプールがある訳でなし、水車用に水止めした堰の上水は恰好の水泳場に早変りし、私の前後十歳程度の者は必ずや水遊びを経験している筈ですね。野火止用水は水量も多く危険も伴いますんで高学年の泳ぎ場だったんです。
 まあなんでしょう。水車通り西側に第一都営住宅が(昭和二三・七)鷹の街道南側に第二都営住宅(二三・八)と矢継ぎ早に建設され、それと同時に鷹の台駅(二三・一〇-明治二七年既に国分寺-東村山間鉄道あり)が、開設されましたがそのうちに廃駅にでもなるんではないかなどといわれてましたよ。そうこうして四、五年後駅前通り南側に西武が分譲して電々公社の社員社宅が建ち昭和三五年頃から徐々に開発の兆しが見えはじめ、今ある驚異的なまでの人家の屋並・町の発展など想像だにしなかったですね。地元に住んでいる者だけに「灯台下暗しでしたね。」と満面笑顔!!小島家の繁栄を願って筆をおく。

(文責 庄司・正木)