●同 第十一号(昭和五十九年一月三十一日)より 地元の方を訪ねて(その一〇) 田中次雄氏大いに語る

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 現在の当主は一一代目で議員を除く他の役職には総て就かれた経験をもち、目下、市の文化財保護委員の職に在り、その傍ら四年前から小平の暮しをビデオカメラで撮り続けておられ、「麦」をはじめ、「風俗誌」のひとこまを゛守る会″発足一〇周年の集いに上映・解説を依頼。
 生活史的なものを語れということですので、神明宮の氏子総代をしている関係から神事のことについての主な行事をお話し致しますと、
○正月元旦 平安祭(新年を祈願し、続いて四方拝)
      元旦祭(氏子代表を午後二時に招いて行う)
○二月一七日 祈年祭(五穀豊穣)
○四月二九日 八雲祭(八つの町内会にある御輿を愛好会所属している者と遠来からの担ぎ屋さん達で行う)
○六月三〇日 七月三一日(神社庁が主体になって型身代、(人の形)大払い行事として芦の湖上で型代流しを行う)
○九月一七日 例祭(神明宮鎮座記念で子供の御輿担ぎ)
○一一月一七日 新嘗祭(初穂などを天神・地祇に薦める)
○一二月二三日 冬至祭(星祭り)
○一二月二五日 お払い(種々神札の頒布式)
○一二月三一日 除夜祭(午前一一時四〇分より)
 その他に、町内での祭事関係のものは個々に行わず、小川町が一体化して行ってますね。

 子供時分の遊びといいますとね、正月には凧上げ、コマ廻し、木を早く倒して勝負をつける「ネキ」、時代柄戦争ごっこ、正月にやってくる三河万才、越後の猿芝居・獅子舞・広い庭先のある家などを利用(多少の利益もあって)して夏から秋にかけて同じ一座による巡回の田舎芝居、その出物に高遠市にある「絵島生島」の物語などは特に印象深く、映画会(無声)などがあり結構楽しめましたし、現在でも薬箱がおいてあって富山の薬売り行商も続いておりますよ。
 現在もありますが、当時は母屋の両側で屋敷内を通っていた用水路、筵や板で堰止めての水遊び、その頃丁度幸か不幸か、私の家がお巡りさんの立寄りの場所で警邏函が置いてあって巡回したという証明の捺印をする所だったもんですから一端、水遊びでも見つかるものなら裸のまま物置小屋か、幸いに鷹の街道辺一面の桑畑であったことから恰好の隠れ場所として利用したもんです。見つかって捕まるものならそれこそ大変ですから。
 村時代の小平には小川駐在所・野中駐在所・喜平駐在所の三か所で此の一円には府中警察署一か所で田無なんかは分室だったんです
 小川用水は「川」と呼んでおりましたし、水の管理に対しては殊の外厳しく共用ということから洗濯物や雑布洗いなどはしないようマナーのもとに風呂水は天秤で水汲み、早朝水甕に溜置くとか、豪雨や長雨によって出水の平安窪というところでは南北四〇〇米・東西二五〇米、地表五米の水深で有名、別名野水、一種の洪水で農作物への被害も少なくなかったのです。その原因は地下浸水量以上の雨と地下水面の上昇による湧水が起る時期に用水への流入で濁るような最悪の場合は濾過して使う日々など困りましたね。
 特別、玉川上水への関心は薄いというのが本音で、現在の一ッ橋学園駅から南側は松の多い一面の雑木林であったことから遠い存在でしたね。そこに関東大震災後、今で言う都内の人口増加や農業恐慌による不況の切り抜け策として箱根土地会社(今の西武)へ山林を売却し、小平学園六〇万坪の宅地造成がなされ、昭和六年に津田塾大、八年には商大予科(一ッ橋大)が移転して来たんです。
 戦前迄はそうだったんですが、長男は後継者ということで次、三男は当然、出ていかなくてはならず、名主など土地があって大きな百姓をやっている農家へ奉公人として働いておりましたね。それは一種の身売的なものと思いますよ。仕着(しきせ)(四季施)といって季節に応じて普段着が主人から与えられて生活しておったわけですね。
 家計を支える大切な換金の仕事である養蚕業は初春や晩秋には薪を多く使用し暖をとってやったもんです。冬は隙間風が冷たく現在とは違い初霜は一〇月中旬頃から降り寒かったんです。然し暖をとる方法としては「いろり」の縁に足を出し残火を利用して足をつっ込んで車座の様になって寝るんです。所がいろりは生活の中心で来客の接待、朝夕の食事ごしらえの場であり、冬の間は特に色々思うようにならず気使う季節でもある訳なんです。
 もうひと昔前になりますが、当時の男女の交際なんていうのは普段は忙殺の毎日ですから、秋の夜長を利用して東村山の機織の娘宅や、娘のいる養蚕農家の所へ手伝いという口実のもとに遊びに行ってましたよ。このような関係で当然、結婚するケースもありましたね。そのような結婚を「なれあい」といって家柄・財産・職業等でふつり合いから親類筋から反対される場合もあったようでしたよ。
 なんか若い時の想い出話しになって気持ちが躍動しちゃいましたねと破顔微笑。
 今後、ビデオカメラマンのご活躍を願って。

訪問・下沢、庄司(文責 庄司)