●同 第十二号(昭和五十九年十二月三十一日)より 地元の方を訪ねて(その十一)立川嘉夫氏 大いに語る

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 第二代目の当主で、本家は古くからある道路(富士見通り)の東隣である。教員生活一筋に四〇年、第一小学校百周年記念事業を成し遂げ、現在は市の文化財保護委員及び社会福祉協議会常務理事の職に在る。
 私も含め玉川上水は昔から江戸市民のもので遠くにある存在として映ってますね。ですから玉川上水というイメージは此の辺の人々にとって小金井桜の花見との関連で捉えているというのが一般的だと思いますよ。
 八左衛門橋から小金井橋までの区間ですが、五日市街道と所沢街道が交叉する小金井橋界隈がなんといっても観桜のメーンストリートなんです。現在、その四ツ角にあるガソリンスタンドが往時の花見茶屋(柏屋)だったんです。四月の花見頃は川越線(西武線)を走る蒸気機関車で臨時の花見電車が繰出し、花小金井駅にはそれ用に引込線を設ける程の熱の入れようであったわけですから、こんな経験もしましたよ。それは小平三小の教員時代に授業を午前中で打ち切り午後は花見に当てたこともあります。
 縁台には赤氈を敷き臨時茶屋が軒を連ね、子供よりも大人が浮かれて踊るやら歌うやら、山高帽をかぶったりの仮装した出立ちで電車に乗ってやってきましたね。
 流行した原因は何か?「おかげ参り」の「ええじゃないか」からの由来か、日頃の願望や、うっぷんなどを仮面に託し噪ぎまくり賑わいをみせることになる訳ですが、それはスカットして気持ちに区切りをつけることなんでしょうね。又、立川中学(旧制)への通学時に多分、稲田堤に行くであろう仮装した人々に出遭ったこともありますし、私にとって聖域視しておった玉川上水を考える場合、花見時に小金井橋迄、往復したことの思い出の中にありますね。寧ろ生活用水である庭先を東西に走る小川用水(川と呼んでいた)こそ身近なものとして感じてます。
 小平の郷土カルタにも風物詩の一つとして載せましたが、共同用水のマナーとして汚したり、濁らせない為に用水の主流は約三尺幅ですが両サイド約一間幅位に花菖蒲などを植え土止めの役割をもたせ、沼ざらいの泥上げ場にもなった訳ですね。子供の頃、用水は原生動物や川魚を捕えたり、ホタルを採って来て蚊帳の中に放したり、或いは、畠仕事に出て暑くてたまらん時には用水を「カッチャクッテ」呑んだり、小島啓次郎さん宅の南側の新堀用水まで遠(とう)う走(ばし)りして水車を廻す関係で堰止めした上流は恰好の水遊び場となるので犬掻き程度でしょうが同世代の連中は共通して経験していることですね。あの辺一体が桑畑であったことや、大人をみて着物毎丸めて逃げまわったり、又、野火止用水も同様に遊び場としての適地でしたね。現在、東村山一中は少年航空通信兵舎のあった所で戦時中爆弾が投下されその部分の野火止用水の幅が拡くなっている筈ですよ。まあ、玉川上水もさること乍ら地域共同体としての生き方を支えてきた文明的な遺産を継承していく視座の必要から小川分水や新堀用水の清流復活を真剣に考えていきたいもんですね。
 用水と比肩する程生活と係わりの深いものに雑木林があります。落葉は堆肥に、燃料としての薪、木炭、まゆ玉の飾り木、あぼひぼ(七草の日に神棚に上げるニワトコの木で粟の穂の形のもの)鍬の柄、杵など。オミナエシ、ナデシコ、ススキなど野草の宝庫として年中行事との係わりをもちお盆の添え花、十五夜のススキ、茅屋根の材料、サツマ床の枠や雨や陽よけの屋根代り。陸稲藁での麦の砂理止め等多用な用途に役立っていたんです。「農家から嫁を貰うには家屋敷の周囲に積んである薪の量をみて」からと、雑木林の所有量こそが目安ともなったのです。
 更に屋敷林である竹林のマタケの効用たるや防風林は勿論のこと、食するタケノコをはじめ竹細工としての篭や笊、垣根、蚕の床篭、養蚕の飼育棚、七夕竹、竹革草履、竹馬、物干竿、漬物用の大根干竿等、将に生活に密着した関係として生きているといって良いのではないでしょうか。
 まあ、常日頃考えている雑感とでも申しましょうか。青少年協議会委員として竹内三郎(大欅のある)さん宅近くの用地を借用して子供達のキャンプを張ったんですが、私がイメージとして抱えていた林があり、下草が生い茂り、などの情景は見事に裏切られ落胆した覚えがあります。
 自然で遊ぶ喜び、多少の冒険心を養い守り育て得る様な環境の場を造り公共施設等も市民が主体となって管理や運営に携わることができるような、町を綺麗にするボボランテア的な心情を育成することに主点をおいた施策はないものだろうか等を考えているんです。
 市民憲章を地で行けるような緑の町として保存林を残す為、林地への課税の問題や、屋敷林の樹木が維持し易い方途とか、近隣の新入居者とのトラブルが起らないようなコミニケートを図ることとか非常に難しい問題ではありますが、今後、我々の市民生活をしていく上で大切な課題ではないんでしょうか。
 最後に、実際に社会福祉事業に携ってみて、奥の深い人間の本質に係るものでもありますので緑成会病院近くに「在宅福祉センター」が出来ますが益々多忙を余儀なくされそうで……と。内に秘められたチャレンジする情熱を肌に感じ乍ら。

(文責 庄司・正木)