●同 第十八号(平成五年七月十八日)より 地元の方を訪ねて(その十四)島村繁治氏大いに語る

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 島村氏は当家十二代目繁治を襲名、花小金井南町一丁目、戦前は畑地小作二町歩を含め七町歩を有し、現在は屋敷内三反(約九〇〇坪)、入口に三本の大欅、ヒイラギの生け垣を右に入る。途中にシックイの土蔵、新母屋で伺う……在郷軍人分会長、青年学校教練指導員、南方へ転戦、敗戦後は農地解放、紙幣切替、公職追放、解除後は市会議員(S38~52)として活躍。
 鈴木用水は開渠で上流から耕地を経て来るのでどんなものが流れてくるものやら、それを飲料水として利用していたもので大変だったんです。
 この辺は地下水が深いのでマイマイズの井戸の様な形では掘れず、真っ直ぐに掘っていても中にガスが充満して人体にも危険が伴うので掘れる状態ではなかった。
 先祖は酒造元から四斗樽を求め多摩川へ行って砂と砂利を買ってきて四層、五層にも砂と砂利とを積み重ね分水が使用されない早朝の綺麗な水を樽に汲み取り濾過して杉の葉を差し挟んだ底下穴からのものを飲料水としていた程ですからね。
 用水は南町街道南北の両側にあって屋敷内のすぐ北側にあります。当時は生産組合員が年一回水路に詰った泥やゴミ、芥類を取り除く浚渫作業をするわけですが、それには小平町予算として計上され全域区内全長六〇キロの用水路を復元し排除物は外へ運んで捨てるという徹底した管理を施しておったんです。
 現在は、処所に用水路が見え隠れしているが原形を留めているのは極めて限られ、深さも浅く幅も狭くなっており大部分が暗渠になっている所が多くなってますね。
 今日の人々は用水路が命の水を運ぶ機能を果たしていたことの何たるかも知らずに用水路近辺に住んでいる人達は格好のゴミ捨て場にしている方が多く見受けられますね。
 農家の場合は、雑排水は農作物の肥料に用い掘り抜きをして地下へ浸透させることはしていませんでした。玉川上水に対するイメージは上水沿線居住者に限らず我々同様、お上の水ですからチリ、芥類を流さないことと撤去作業も頻繁にしており、小平水衛所、境水衛所等で衛視によって厳重に監視、監督され管理しておったものですから親しみどころか触らぬ神意識が一般的にそう感じていたと思いますがね。唯一、上水との関わりは小金井橋をメーンとする上流、下流に亘たっての桜の名所の花見時ですよ、すぐ近くの小金井街道を南へ繰り出し、行き着く迄にデキ上っている人が多勢おりましたね。
 ついでにそれと関連したことでお話しますと西武の創設者、堤康次郎が昭和二年に高田馬場から東村山まで鉄道を開通その際、赤羽工兵二個連隊の実地訓練、演習という名目で動員し隊員は近在の農家に分宿させ、待遇の善し悪しを分宿毎に云々する沙汰もあったとか伺っておりますよ。要するに官費をもって鉄道を敷設するという一挙両得策をもってしたとのことです。世間一般には交通の基幹産業である鉄道を敷いたということで功労のあった人と評価されるところでしょうが、また箱根土地会社をつくり国立学園の開発、手身近なところでは現在の小平学園東、西町六〇万坪大正十二年の買収にはじまり、当時は売上登記といって売れなければ換金できませんから手放した土地所有者は随分アテが外ずれたことだろうと思いますね。当時は第一次世界大戦後全国的な農村不況で山林地主は換金による潤いを考えるのには格好の売り地だったのではないでしょうか。
 堤さんは色々な手法を凝らし乍らも政治家であり実業の手腕家でもあることから先見の明のノウハウも手伝ってか実に近江商人に相応しい企業化ぶりを遺感なく発揮したものだと思いますね。
 更に宝塚の歌劇団を呼んで客寄せを企画し、廻田の一角に屋台を組んで東に傾斜を付けて土地販売の宣伝に努めたのです。これに呼応するかのように昭和三年には国分寺~萩山間~小平間の鉄路を敷設という開発基盤が徐々に整備されていった訳です。
 小平の町並みはスプロール開発で是ぞ市の中心部だという所がないのが特徴じゃないでしょうか。学園の場合も五〇m置きに道路をつくり畑の中へ全部割り付けし現在の都市計画道路へと引き継がれることになったのです。残念なことに一方通行道路が多いということでしょうね。幅員が狭く、五間道路が一本あるだけで、その外は四m道路だけですからね。
 道路拡幅も先立つものの関係で思うにまかせずといったところでしょうか。基本的には農道であった所が道路交通法、建築基準法、消防法がらみで四m道路を公道として見做さざえるを得なかった諸々のいきさつのひとつとして人口の多摩への流入促進を図るため、建築確認は周囲の人々の三文判で建築許可したり道路申請も容易にできたということで一段とスプロール現象に拍車を掛けた要因ではないかと考えておりますよ。
 今までにも年間一万人の人口増の場合など、学校建設、用地買収等で税金の使途は専らその方面に投入され一時は貧乏財政であったんです。国の施設、警察大学、自衛隊訓練所等、学校は税収の対象外ですからね。
 従って、小平市にとってはブリヂストン様々ですよ。ことは昭和三十一年、小川睦郎町長が石橋さんと交渉して九州から陸軍兵器廠跡地に誘致し、農地所有者には一段に付き一、〇〇〇円町から交付してBSに買収して貰ったんです。その外に日立武蔵工場、黒龍東京工場からの固定資産税と事業税と所得税とによって市の税収源のメーンになっているのです。商業や農業からの税収は差程でなく固定資産税の課税も若干高くはなっておりますね。
 今後の再開発にあたっては土地の買収費として莫大な費用負担を見込まなければならず容易なことではないと思います。私が市議会議員当時ですが今にして思い出されますのは戦前の満州、今中国の東北「大連」の市長をつとめたことのある小川某氏が審議会にきて立川から田無までの区間に一〇〇m幅の基本道路を東西に四本位造れと叱咤し、これからは自動車産業を中心に発達することからそれに見合う交通機関の整備を最優先すべきであるとの予測をもとに思い切った道路網を造成すべきであるという将来を見透した都市計画を構想されての発言を思い起こすにつけ、その千里眼には敬服させられます。
 この辺では自家に井戸があったのは現在の長沢酒店一軒だけ、この鈴木街道は大雨などが降るものなら胸まで浸かる程の場所が数ヶ所あるという悪路でしたね。かなり道路幅もあるので一丁目から東方に向けて流れ、道路に大きな凹みのあるところに集中して溜まるようになる訳。当時、物を運ぶのは天秤で荷を担ぐことから生産物が多くなるにつれ運搬用としては大八車が主役であったので凸凹道を修復するために道路脇を約二十m(六〇尺)位掘って玉石や砂利を敷き、その後を共同井戸として使用しておったのです。現在も角にある酒屋の屋号は井戸屋といいます。昭和の初めまでは五~八軒がつるべで汲み上げ飲料水として利用していたのですが、ポンプが出回り始めたことによって役割を他に譲ることになったのです。然し、一気に普及したのではなくまた単に家庭用ポンプ程度の機能では役にたたず工業用ポンプを据えてからのことです。今も砂利採取後が大きな空洞になっている所も何か所かありますよ。ですからそれを知らずに鉄筋による重層の家屋を建てようとして失敗した例もあることですから。
 鈴木街道一丁目から廻田を通っている都道の小金井街道は自然水に洗われて綺麗になった多摩川の玉砂利を敷いた道路に比べ、一方我が鈴木道路は地下からの砂利だったので茶褐色なのでその差は判然としており敷いた石もまた不揃いこれ止むなしの感。
 最後の話として、耕作面積の多い農家では使用人(現中一以上)として作男や子守人を使っておったんです。私の家でも東北からきておりました。作男、女中各二人「ケア」という一種の人身売買の世話役を通して一年間、小遣い幾らでという契約、実に可哀そうで名前も呼び捨て、冬の手足のアカギレ、暖もとれず、食にあってはなにおか言わんや、あの時の頑是無い子供を想うにつけ、心が痛みますね。

(文責 庄司)