1.大正十二年九月一日の関東大震災(四才時)

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 私は一人で座敷で遊んでいたのを、長女のカネさんが蚕室で養蚕に桑をくれていた時大地震が起り、私が座敷で一人でいるのを見て家が倒れたら大変だと裸足でとんで来て私を抱えて竹山に行ったと言うが、私には記憶が無い。知っているのは竹山にいる自分と、兄金次と辰季の二人がお寺山で遊んでいて地震が起ったので家に帰ろうと川の処まで来たら、ふだんは平気でとび越た川が地震の大ゆれで川が波立っているのでこわくてとべず、杉の木にしがみついて泣いていたのをよく覚えている。家の前に住んでいた新保クラ婆さんとトシさんが上半身裸で腰巻だけで竹山に逃げてきたのも知っている。(注1、注2)
 父が今の自治会長(当時の下組の組長)と大沼田新田の消防分団長をしていたので、村役場の小使さんが来て「地震のゆり返しがあるかも知れないから家の中では寝ないで外で寝るように」と下組の皆に父が知らせて歩き、庭に蚊帳をつって寝たのを覚えている。
「朝鮮人が暴動を起す」とデマが飛び父は消防団の袢てんを着て、兄恭一は青年団服で鎌や鉈を持って出て行くのを見た。
 後年父が話したところによると、あの時はまだ村山貯水池を造っている最中で、村山貯水池から武蔵境の浄水場まで東京市内に水を流す水道管に水が流れていなかったので、水道管内に朝鮮人がいるかも知れないと、駐在所巡査を先頭に萩山の急下水道口から入り花小金井駅南口の急下水道まで提灯を照らして行ったが、朝鮮人はいなかったと話した。
 大正の時代には医者は小平村にはいなくて田無の佐々医院だけで他は所沢の新井病院位であった。(注3)
 私は小さいときから腎臓が悪く、「夜目くら」と言って夕方になると目が見えなくなり、それには八ツ目うなぎが効くと、久留米の落合と言う処の田んぼの川に八ツ目うなぎがいるのを金次兄と辰季兄が学校から帰ると取りに行き、そのうなぎの煮たのを食べた。(注4)
 又、長兄の恭一兄が西瓜と西瓜の種が良いと、当時は夏は西瓜は家で栽培して食べられたが無い時は兄が東京に買に行き食べさせてくれた。種子もよく煎じたのを飲んだ。
 母に背負われて方々の医者に行ったのもおぼえている。
 小さい時から歯が痛くなると母とお寺に行き、坊さんが本堂でお経を上げてくれて半紙を長三角形に折り、それを家に持帰り機織場の柱に釘で打付け、歯が痛くなった時にその釘を金鎚で叩くと歯の痛いのが無くなったものだった。(注5、6、7)
 私の家では畑でとれた作物の初物は、家の仏様とお寺のご本尊様に上げる習慣になっていて、何時も私が持って行く役だった。
 お寺には今も薬師堂があるが、昭和の始め頃までは薬師様は目の悪い人からは尊敬され、毎月十二日は大沼田泉蔵院の薬師様の日で、特に二月と九月は護摩を焚く日に決まっていて、その日には境内にだんご屋等露天商が出店し、方々から参拝の人が来て賑やかな薬師様だったが住職が代り今は昔の面影は全く無くなり寂しい。
〔注〕
(1)私は七人兄弟の末っ子。上から男、女、女、女、男、男、男でこのほかに生後すぐに死んだ子が二人いたという。長女のカネさんは東久留米の市長さんのところに嫁いだ。辰季(たつとし)は次男、二九歳の時ニューギニアで戦死。トシさんはひとつ上の姉。
(2)竹林はモウソウ竹が多かった。この竹は竹細工の職人が買いに来た。今の家のうしろにも家の東にも、寺との境にも竹林があった。マダケは、ものおきのうらに少しあっただけ。
(3)当時、近郊の医者はこの二軒くらい。往診はほとんどない。一度だけ佐々医院に来てもらったことがある。昔はみんな自分の家で死んだ。薬は富山の置き薬にたよっていた。
(4)八ツ目うなぎは、うちの周りの田にはいなかった。いたのはフナ、ハヤ、ドジョウ。八ツ目うなぎは手づかみでとる。
(5)下久保家と隣接する寺院とのつながりは深く、寺院の畑は同家が引きうけて作っていた。そのため新しくとれた作物は必ずお寺に届け、ボタモチや節句のカシワモチ、盆のマンジュウなども必ず届けていた。歯の治療の半紙の件も同家だけのことだったという。
(6)私がものごころついての早い記憶はこの医者がよいと、歯痛で寺にいった時のことになる。これは三歳時分のころだったと思う。大震災の記憶はそのあと。一小のところにあるコイデさんという皮膚科の医者のところに母に背負われていった記憶が古い。
(7)この機織場は奥座敷の前にあった。高機が二台置いてあり、母と姉三人が使っていた。織るものはすべて自家用で、ビションマイ(クズマユ)をほどいた絹糸、購入した木綿糸で織っていた。母親は染めも自分で行なっていたが、染料などの入手先は不明。