5.鷹にさらわれた話

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 私は親や兄姉達から「お前は鷹にさらわれた」とよく言われたのを覚えている。その話は私がまだよちよち歩きをしていた頃一人で庭で遊んでいるのをみんなは知っているが、いつの間にかいなくなったので大さわぎになり、みんなで方々手分けして探した処、当時の家に働いていた人が当時の前沢分と言って、現在の新青梅街道より北の滝山でガソリン屋の北の小学校南東隅辺りが、昔から私の家から当時久留米分の畑と山林に行く原道で、原道の西の山林は早稲田農場宿舎があり、右側が私の家の畑と奥の方が山林で太い松並木と楢やくぬぎの雑木林で、落葉を冬になると堆肥にくず掃と言って八本骨の大篭(直径一米位)に詰て堆肥場に積上る習慣になっていました。
 その畑の入口が少し急な坂道になっていて、山林や坂の上から家に帰る時は下り坂でらくなのですが、肥料等重い荷物を久留米分の畑に運ぶ時は大変な坂でした。家からは約二百五十米位離れた処ですが、実は私がまだよちよち歩きでこんな遠い処まで歩ける筈がないのにこの坂道で泣いているのを、当時家に働きに来ていた青柳有年さんが見つけて家に連れて来たと言う。みんなは鷹にさらわれたのではないかと当時評判になったと言うことをよく私は言われましたが、実はこの話と全く同じことが昭和三十三年二月にありました。
 私の次男利夫は昭和三十一年二月二十日生れで、生後二十日目に私が栃木県塩原温泉奥の山小屋に親子五人で住み、父親は山から材木を下の車のある処まで橇で運び出す仕事をしていました。
 小平慎敏と言う十一才の少年を子守として連れて来て、利夫の子守をまかせて私と清江は作物を蒔き育て売る仕事が多忙で夢中で働き、子供は子守任せでした。
 久留米の山林にくず掃に行き、子守が利夫背負うて来て乳を飲ませる事が度々ありました。その時は必らずあの坂道を通ります。
 その日は私と清江は、家の南現在の鹿島建設駐車場の南の方の雑木林の落葉を堆肥の為に掃いていたら、子守の慎敏がとんで来て利夫がいなくなったと言う。
 驚いて家に帰り慎敏から事状を聞くと、庭に利夫が一人遊びをしていたが、目を離したら何時の間にか姿が見えなくなり、方々探したが見つからないと言うので、川に溺れていないか川を見て歩いたり、井戸の中や小平駅方面に行ったかと駅方面に飛んだり、本家の者に話しみんなで方々探し、神様に心の中では無事を祈り夢中で探していたら、本家の傳一君が久留米分の私が昔の鷹にさらわれたと言われた場所と同じ坂道に泣いている利夫を見つけて連れて来てくれた。利夫が無事に見つかり嬉しくて全身の力が抜けた。
 よく考えて見ると、子守に背負われて母の乳を何度も飲みに行った時のまわりの風景や道を背中で見ていて、庭で一人で遊んでいる時急に乳がほしくなり、うすらおぼえながら背中から見た道をよちよち歩き乍ら、本人にすれば乳飲みたさに一生懸命歩いて行ったが、山を目の前にして坂道を上るのが疲れて大変で泣いてしまったのでないかと想像すると、私が昔鷹にさらわれたと言われたのも同じ理由ではなかったか。親子同じ鷹にさらわれたなと不思議な感じがする。