6.小学校入学

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 大正十五年四月一日私は小平村立第二小学校分校に入学しました。
 現在の小平武道館の処で、一年生から五年生まで平家教室で一年生と二年生は同じ教室で柴森校長先生の奥様が紫の袴を着けて、一年生を教える時は二年生は自習二年生を教える時は一年生は自習と言う教え方だった。
 昭和三年二学期の時、現在の第二小学校が創立され、九月一日から私は第二小学校に転校しましたが、第二小学校分校の東隣の文房具店高橋商店が分校廃止に反対し、これに当時民政党は第二小学校設立に賛成、政友党は高橋商店を応援し政友党員の子供は第二小学校に行かせず分校に止まり、机が無いので当時のみかん箱やりんご箱を机の代りに使用し、先生も代用教員を頼んでやっていたが、私の家は民政党の方だったので第二小学校に最初から行ったが、三学期になると分校では三月二十五日の卒業式に学年の修学証書や卒業証書が出ないので、止むなく三学期からは分校の反対した生徒も全員第二小学校に登校した。この騒動を[は]「寺子屋騒動」と騒がれ新聞等でも大々的に取上られた有名な話だった。
 第二小学校開校の昭和三年当時は、青梅街道から鈴木街道の間は畑が殆んどで、鷹の道の南北に雑木林が少しあった程度で、花小金井駅から出発した下り線電車が花小金井駅から出て昭和病院前の青梅街道踏切に入る電車がよく見えたし、現在の小平学園は当時ではモダンな三角屋根の洋式家屋が全部で十軒位。道路は箱根土地会社が縦横に見事に整理されていたが点在する家の他は総て畑か雑木林で道路は当時とすると広かったが、人通りが無いので主要道路以外は草ボーボーの道だった。