8.花見

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 私の記憶による大正末から昭和十五年までの頃は、小平村は南は五日市街道から鈴木街道、青梅街道、東京街道と東西に走る四街道の南と北の両側に農家が建並び、街道と街道の間は殆んど畑で、所処に雑木林が点在し養蚕農家も多く、桑畑が三割位あった。
 畑を区分する為防風を兼ねて茶を植たため、五月になると茶摘姿も各所に見られ、私の家でも畑の境は全部茶が植てあったので、近所の者が茶摘に来たので毎日目方を棒計りで計り、半紙を細く切って右上に月日、真中上に目方を書き下に名前を書いて渡し、茶は毎日秋津の肥沼精茶店に持って行き、茶摘が終ると父が渡した紙により摘賃を支払って歩いたものだった。大沼田では私の家が一番たくさん作っていて、家で使うお茶はホイロ場と言ってお茶を整茶する家としてその為の建物があり、その中にジンガラと言って精米や精粉に使用した。
 昔二宮尊徳が本を読乍ら足を踏んでいる姿が本に出ていたあのジンガラで、小平村でジンガラのある家は私の家だけのようだった。
 養蚕も百貫取と言って、一回に売る蚕の目方が昔の目方で百貫、現在の目方で約三百七十五Kである。
 だから私の家には住居と殆んど同じ位大きい蚕室と言って養蚕専門の建物が庭の南にあり、その西に倉があり、住居の東に肥と言う羽目の無い大きな建物があり、養蚕や落葉を積込んでいた他に豚小屋と外便所と鶏小屋を兼ねた小屋があった。