③小平のブルーベリー栽培について 島村速雄さん(昭和十九年生まれ)からの聞書き

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 小平のブルーベリー栽培は、私が始めた。しかしこれは振り返ってみると、偶然の積み重なりの上に今があるように思える。
 私はこの地で生まれたが、私が中学生くらいの頃、このあたりにも開発の波が押し寄せてきていて、近辺の農家は、畑を農地としてでなく、開発化に対しての不動産的な価値をもつ土地としてみるようになっていた。そしてその人たちの気持ちが農業から離れていくありさまを目の当たりにした。そんななかで私は、ここで農業を続ける人間がひとりくらいいてもいいんじゃないかという気持ちで、自分の進路を考えるようになっていた。それで大学は東京農工大を選んだ。家から通えるところにあって農学部のある大学(農学部は府中市)、というのが選んだ条件だった。
 当時私は小平で花卉栽培をやってみようと考えていたので、大学では花卉園芸を専攻しようと思っていたのだが、入学した当時、その分野の先生は大学におられなかった。
 入学してしばらくして、岩垣駛夫(はやお)という先生が赴任された。果樹総論と果樹各論を担当された。私はこの先生の指導を受けることになった。岩垣先生はリンゴ栽培の研究では日本で五本の指に数えられる方だった。農工大にこられたいきさつには、その前任者(リンゴの「ふじ」という品種をつくるのに貢献された方)の推薦があった。その方は、かつて青森のリンゴの試験場の場長で、岩垣駛夫の上司であり、岩垣先生を後任に推薦されたという。岩垣先生はそのころ、リンゴの研究での米国行きから帰ってきて、福島県の試験場長になっておられたが、農工大にうつってこられた。
 米国で岩垣先生が研究をされていたリンゴの圃場のすぐ隣が、たまたまブルーベリーの圃場だったという。これも大きな偶然のように思う。先生は帰国後、その苗を取り寄せた。御帰国は昭和二十七年のことになる。実は、先生はこの果実になじみがあった。先生は福岡県の旧制三池中学を卒業されているが、中学生のころ裏山でブルーベリーの野生種をよく食べていたという。米国で偶然隣の畑で見かけたおり、その記憶がよみがえったという。これはあれと同じものだ、これなら日本でも栽培できる、と。ブルーベリーの仲間は日本国内で十七種ほどあり、野生種ももともと日本にも生育していた。その当時、日本ではまだ食糧の供給が大きな課題であり、リンゴの研究が中心の先生ではあったが、地域における作目として貢献できるのではとの思いで、ブルーベリーを大学の農場の一角で栽培をされた。とは言え、当時はこの果実について、販売の展望などまったくなかったといってよい状態だった。
 私の畑にあるブルーベリーは、私が大学卒業後、大学で栽培されていたものから株をわけてもらったもの(ラビットアイ三種)になる。それをずっと育てている。私の父は五十歳のときに農業から手を引いた。そのため空き畑ができていた。そこに私はブルーベリーを植えた。もしそのころ、父がまだ農業をしっかりやっていたら、私にまわってくる畑はなかったと思う。新しいことをやってみる環境にここでめぐまれたことになる。こう述べてくると、ここにいたるまで、細い隙間をひとつひとつ通ってきたような気がする。
 私がブルーベリー農園を始めたのは昭和四十三年。ブルーベリー以外には花卉栽培をてがけていた。昭和四十年代初頭の日本はまだ食糧の供給が問題となっていたので、ブルーベリーの認知度は皆無に近かった。東京の青果市場にサンプルをもっていっても相手にしてくれなかった。それどころか、なんでブドウを房からはずして持ってくるんだと言われる始末だった-これは昭和四十七年のことだったか。とにかく岩垣先生の旧知をたよって果物専門店におかせてもらっていた。
 昭和五十一年だったか、アオハタという広島にあるジャムメーカーがブルーベリーのジャムを発売した。このときテレビCMを、たまたまうちの畑で撮影したものを流した。このジャムメーカーはそれ以前から野生種の外国産のブルーベリーを輸入していたというが、まだそのころは、日本人は寒色系の色の食べ物は好まれないと言われていた時代であった。この果実にケーキのトッピングとして若い女性が注目し始めてはいたらしい。若い女性のなかで認知されていけば、彼女たちが結婚し子育てをしていくなかで、さらに世代をこえて広まっていくだろうとは考えた。
 ここでもうひとつ、偶発的なできごとについて。実は、前述したように、日本にもブルーベリーの野生種は生息していた。浅間山山麓にも生息していた。その地域の人たちもそのことは知っていた。東京オリンピックの前、その浅間山の生息地の下にあった火山礫を、建築の材料としてごっそりとられてしまっていて、そのあとにはブルーベリーは再生しなかったという。もうひとつ、その少し前の、浅間山の噴火のため、山麓が入山禁止になって生息していた場所にも地元の人たちが入れなくなったという。ちょうどそんなとき、わたし達と先生は、浅間山の峠にブルーベリーの加工品をつくるのがたいへん上手なおばあさんがいると聞いて、軽井沢にその調査のために出かけた。降りた軽井沢の駅前で、引き売りをしている八百屋さんに出会った。どうしてここへ、と聞かれたので、これこれこういうわけで、と話すと、自分はブルーベリーのジャムを作りたいから売ってくれないかということになり、東京で買い手の少いブルーベリーを軽井沢で引き取ってもらうことになった。軽井沢では、ブルーベリーが大豆の黒豆に似ていることからクロマメノキと呼ばれていた。明治以降、欧米から来た宣教師は避暑地に軽井沢をえらんで来ていた。そこで彼らは、野生のブルーベリーを見つけ、郷里と同じような加工品を地元の菓子屋などに頼み、食していた。ここでは百年もまえからこの利用が進んでいた。軽井沢でこの加工品が増産され、軽井沢に来た首都圏の観光客が購入してくれれば、これは東京近辺での認知に拍車がかかることでもあった。
 昭和四十年代後半になると、果実の輸入が盛んになり、国内の果物生産者は打撃を受け、リンゴ農家も作付け転換を考えるようになった。私の大学の同期生で、長野県の園芸試験場の場長もした経歴をもつ友人(小池洋男氏)が長野でもブルーベリー栽培をひろめるようになった。こうしたことから供給体制も次第に整っていった。振り返えってみると、本当に偶然の積み重なりの結果、今があるといえそうだが、もしこれを必然とすれば、それはひとえに岩垣先生の力と人徳によるものだと思う。
 今から五~六年前、お昼のテレビ番組で、みのもんたという人がブルーベリーをとりあげた。火のついたようなブームになったのはそれから。今、小平にブルーベリー農家は三十軒を越える。ブーム前からつくっているのは、うちをいれて三軒。六年くらい前からは消費者の問い合わせが多くなったが、それ以前は生産者からの問い合わせが多かった。北海道から沖縄まで、大変熱心に情報を尋ねてくる。私は仕事をするよりその対応にかける時間のほうが多いほどだった。だからこれまで、むしろ小平外の人たちの力に支えられてきたという思いが強い。こうした状況のなかで、小平市は、「ブルーベリー発祥の地」とアピールしている。これからはブルーベリーでありさえすれば売れる、売ればよいという時代ではない。消費者の目も厳しくなっていく。そうしたことを理解しようとする姿勢は不可欠になる。
 こうしたことが発祥の地と言われる小平のブルーベリーのあゆみになる。 (平成二十一年十月二十一日)