⑤西田泰三「小平市無形文化財 鈴木流囃子覚記」(抄録)

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   (前略)
 鈴木流若囃子の由来及び変遷
 往年の青年教育の先覚者たりし、深谷定右衛門氏(浅之助氏の親)が弘化(江戸時代孝明天皇)当時の若衆を善導すべく思い立ち、(当時は若衆は賭博、女遊び、深酒等を楽しみ、青年衆に怠惰の風潮多きを嘆き)東京郊外田淵の通称、初さんと言う人より伝授されしお囃子が因となり(健全娯楽として)弘化四年(西暦一八四七年、今からおよそ一一九年前)九月多数の青年衆を集めてこれを教育せしが初めであった。中にも深谷運平なる人は此のお囃子が取り入れられて二代目なるも其の技は実に名人とも言われ、当時、江戸神田の祭典に於て近郊近在の山車が多数集まり、その技を競いしも他に並ぶ人なく、近郊近在随一の称をほしいままにし、遂に鈴木流なる一派をなすに至り、又その笛の音色等は各選抜の囃子連中を圧倒し江戸中に其の人ありと鳴りひゞいた由、また四代目深谷幸三郎氏は二代目深谷運平氏に劣らざる笛の達人にて当時近郊近在随一と言われ、近村に同流を伝授された、その後年改まり、人代り時代と共に受けつぎ郷土芸能の一つとして今日に至る。その後近郷近在同志へ伝授せる事実に十二ヶ村とのこと、現在の師は満八十一年七ヶ月の高齢、肥沼平次郎氏(一郎氏父)にして今尚矍鑠として奥技を伝う、これ五代目の受け次ぎ者なる由、現在お囃子連中は六~七代目になるというべく其のリーダーは現町議西田泰三氏にして熱心なる後継者なり。今度十一月十六日小平全町を挙げての町民祭に際し、かく伝統を有する。
   (中略)
 小平市無形文化財
    鈴木囃子続覚
 其の後、太平洋戦争悪化し休止状態となり一般より又もと連中とも忘れられたようになつていた。
 折しも昭和二十年八月十五日太平洋戦争無条件降伏して世の中は一変した平和、そこで以前の技術精神を生かして、共に友情を深く平和に暮らしたく、此処に希望者を集め、遠藤泰治氏宅村松一郎氏宅等を借り笛を深谷祐寿西田泰三が、肥沼博一氏穂積倉吉氏島崎秀吉氏の三名が熱心に、稽古し囃子方太鼓の方は現市議鳥塚定四郎氏村松一郎氏が大体一心になり、廿名位希望者がいたが中々長くなり、むづかしいので連中も少数になり現在に成つてひと通りは鈴木流稽古していきさえすれば差しつかえなく出来るだけになつている。
現在連中氏名は    現小平市々議会議員西田泰三 鳥塚健一郎 鳥塚定四郎 村松一郎 島崎秀吉 肥沼博一 穂積倉三 石川栄 村野七郎 長沢万治 以上の連中にて時々地方の依頼に応じ出演する事があるが時勢の流れにて次第に下火になりつつあり、誠に遺憾に思つているも連中一同一身同体のような平和な日々を送つて今日に至つている。
   (中略)
では最後に現在鈴木流囃子の順次を記しておく、昔は聖殿より初め、屋台、宮聖殿、屋台、鎌倉、国固め、攻め章り、四丁目、屋台、其の上、人馬、終りの屋台等にてひと通り施行せるも其の後年と共に上演も変り現在にては普通ひと通りとして屋台より、鎌倉、国固め、攻め、四丁目、屋台にて一囃としている。又、鎌倉にて舞をつけるときは、寝獅子を、屋台にては立ち獅子等また、四丁目、人馬等にては馬鹿面、その他おかめの面を舞い、人気をひき子ども諸人を楽しませている。また、時たま宮聖殿をやることもある。
現在舞をできる者
○西田泰三(七五)(鎌倉より四丁目まで神社面にて舞う)
○島崎秀吉(四〇)(獅子舞、馬鹿面にて舞う)
○村松一郎(五五)(人馬、おかめ等の舞にて人気を引く)

以上の如くにて一同和気あいあいのうちに楽しくやつている。
次にお囃子道具の異名呼び名を記しておくと
1.(横笛一人一本)トンビと呼び太鼓の後に立ち、囃子総先導にてみちびきする。
2.(小太鼓二コ)附ケ、調べ、といい、右を頭または先バチ真打ち、左を後バチ、流れともいう。
3.(大太鼓)少しはなれて一番右の方に位し、大胴とも呼び、笛小太鼓の調子に合わせ相間にいれる。
4.(スリ鐘)鐘の下に房をつけ、一名予助ともいい、笛、太鼓の相間を調子よくたたく。
5.(鐘真木)一名気とも呼び、人馬等には最もよく調子を合わせ入れる。その他代神楽の横の小太鼓等もある。以上にて舞をつけ演ずるも総ては、(笛)(トンビ)がみちびきにて引導するものである。但しこの異名、呼び名は鈴木流のみならず全国一般の囃子の呼び名のようである。

   (後略)