小平市は、昭和三七年(一九六二)に成立し、平成二四年(二〇一二)年現在、面積は二〇・四六平方キロメートル、人口は約一八万五〇〇〇人である。都心から西方に約二五キロメートル、武蔵野台地のほぼ中央に位置し、市域は東西に長く、起伏の少ない平坦な地勢である。市名は、明治二二年(一八八九)に成立した「小平村」の村名に由来するが、「四方平ラカナル意ト、小川ノ小ノ字ヲ取リ、小平ト称セルモノナリ」(大正七年「市区町村名ノ沿革」『小平市史料集 近現代編 第五集』、四二頁)と、四方が平らであることと、小川村の小の字を組み合わせた、という説が伝えられている。市名は、小川村に代表される地域の歴史と、平坦な地勢に関連して成立したといえよう。現在、市の周囲は、東が西東京市、北が東久留米市、東村山市、西が東大和市、立川市、南が国分寺市、小金井市と接している。
つぎに、小平市の地図をみてみよう(付図)。
図1-22 持添分の地目構成 |
市の中央部を東西方向に青梅街道が走り、これと並行して南に五日市街道、北に新青梅街道、東京街道が走っている。また、承応(じょうおう)三年(一六五四)に開かれた玉川上水が、五日市街道に沿って西から東に流れている。これらは、小平市域が東京都心や東西の地域と深くかかわっていることを示している。一方、南北方向には、府中街道・小金井街道・所沢街道が走り、明暦(めいれき)元年(一六五五)に開通した野火止用水(のびどめようすい)は、小平市域西端の中島町(なかじまちょう)で玉川上水から分かれ、市の北辺を東北へと流れる。これらの街道や上水は、小平市域と周辺地域をつないでいる。
今日、小平市域は住宅、学園、商業、工業などの諸地域によって構成されるが、農地や武蔵野の自然が比較的多く残されているのも景観上の特徴である。
地割にも注目したい。口絵1からもわかるように、街道をはさみ南北に長い短冊(たんざく)型の土地が、ほぼ均等に並んでいる。南北の道を一つ間違えると、東西の道が少ないため、遠回りしなくては正しい道にたどりつけずに困ったという話もある。近世(きんせい)の新田開発の土地のかたちが、今日に生きているのである。
地図の町名や地名をみてみたい。大沼町(おおぬまちょう)の「大沼」は、享保(きょうほう)七年(一七二二)に大岱村(おんたむら)(現東村山市)の名主當麻弥左衛門が大沼田新田(おおぬまたしんでん)を開発したことにちなむ。市名のもとになった小川町(おがわちょう)などの「小川」は、明暦二年に岸村(きしむら)(現武蔵村山市)の小川九郎兵衛(おがわくろべえ)が開発したことによる。上水本町(じょうすいほんちょう)などの「上水」は、玉川上水に由来し、鈴木町(すずきちょう)の「鈴木」は、享保七年この地域に新田を開発した貫井村(ぬくいむら)(現小金井市)の名主鈴木利左衛門(りざえもん)の姓による。
喜平町(きへいちょう)は、玉川上水の南側にあった野中新田(のなかしんでん)の組頭喜兵衛にちなむ喜平橋を由緒とする。回田町(めぐりたちょう)の「回田」は、当初廻り田村(めぐりたむら)(現東村山市)の農民が開発したことに由来する。たかの台の「鷹野(たかの)」は、寛永(かんえい)一〇年(一六三三)に武蔵野地域が、御三家(ごさんけ)の一つ尾張徳川家(おわりとくがわけ)の鷹場(たかば)(鷹狩りの場所)に指定されたことに由来する。近世、鷹狩のことを鷹野ともいったのである。小平市域の「御鷹の道(おたかのみち)」(たかの街道)は、鷹狩りの際の鷹を訓練する鷹匠(たかじょう)らが通ったためと伝えられる。西武線の駅名「花小金井」は、元文(げんぶん)年間(一七三六~四一)に大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の支配役人の川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)が玉川上水沿いに植えた桜(小金井桜として知られる)にかかわる。
これらは、みな近世の歴史にちなむ名前であるが、このほか小平市域には、明治一六年の明治天皇の行幸(ぎょうこう)に由来する「御幸町(みゆきちょう)」、津田塾大学(つだじゅくだいがく)にちなむ「津田町(つだちょう)」、箱根土地会社の学園都市建設計画にもとづく学園東町(がくえんひがしちょう)などの「学園」(現在の一橋大学はこの計画にもとづき転入した)などの町名もある。いずれも、小平市の近現代の歴史に関係する地名である。
このように、今日の小平市域の地名は、長い歴史の積み重ねを伝えている。小平市域は、ある日突然出現したのではなく、近世以来三五〇年以上の時の流れのなかで形成されてきたのである。武蔵野とよばれる雑木林を切りひらき、さまざまな政治、経済、社会、生活、文化が展開し、今日の小平市を作ってきたのである。
『小平市史』は、こうした小平市域の歴史を、市民の皆さんとともに、今日の視点からみつめようとするものである。小平の歴史を知ることは、現在の小平を知ることであり、未来の小平を構想することにつながる。私たち一人一人が、歴史的存在であることも、気づかせてくれるはずである。