《『小平市史・近世編』を読んでみよう》

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 本書は、『小平市史・近世編(きんせいへん)』と題されている。「近世」とは何か。この用語をめぐっては、学術的にさまざまな議論がされてきた。近世のはじまりの時期や、おわりの時期についても諸説ある。しかし、本書では、今日の小平市を準備した時代、基礎となる時代、すなわち、天正(てんしょう)一八年(一五九〇)の徳川家康の関東入部前後から、慶長(けいちょう)八年(一六〇三)の江戸幕府の成立をへて、慶応(けいおう)三年(一八六七)の幕府瓦解にいたる約二七〇年余りの時代ととらえておきたい。もちろん、この前後の時代にもふれるが、おもには、いわゆる「江戸時代」を描くことになる。
 さいわい、小平市域には五二家、三万一六〇九点に及ぶ貴重な古文書が残され、整理されている。本書では、これらの古文書を調査・分析し、今日の地形、景観、伝承なども考察しつつ、近世の小平に迫ることにしたい。
 本書では、近世の小平を理解するために、三つの視点を設定した。
 第一の視点は、近世=「平和」ということである。江戸幕府は、約一世紀続いた戦国時代を克服して、天下(国家)を統一し、その後二六五年間、外国と戦争せず、国内でも戦争をしなかった。
 江戸幕府の「平和」体制により、幕府のもとに約二六〇の大名が編成され、戦争は凍結されたのである。天保(てんぽう)一四年(一八四三)八月一一日、廻り田新田の支配代官江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)が廻した幕府の触に、「天下之御地面(てんかのおじめん)」(史料集七、三〇三頁)とあるように、日本社会のすべての土地を天下(国家)の土地として認識させ、大名たちの武力による土地の奪い合いを抑止したのである。
 また、豊臣秀吉以来の政策である「兵農分離(へいのうぶんり)」(武士と農民の身分の区別)により、戦国社会に広く普及した刀、鉄砲、弓、鑓(やり)などの武器を武士が集中的に管理し、逆に、農民などは武器の所有や使用を厳しく制限された。たとえば、廻り田新田の史料によれば、安永(あんえい)元年(一七七二)九月二八日に、幕府が「鉄砲御改(てっぽうおあらため)」(鉄砲調査)をおこない(史料集七、一二頁)、安永五年五月一〇日には、尾張家鷹場預り案内(あんない)で小川村名主の小川弥次郎(おがわやじろう)が、農業を害する猪や鹿を鉄砲で打つことを申請し、以後七月晦日に打ち止め証文を提出することを誓っている(史料集七、一三頁)。また、天保一四年五月四日には、多摩郡柴崎村(しばざきむら)内(現立川市)で鉄砲一梃がみつかったことから、幕府は多摩郡の幕府領、旗本知行所、寺社領すべての村々に対して、心あたりの者は名乗り出るよう強く指示している(史料集七、三〇〇頁)。鉄砲を農具として使用することも、厳しく制限されたのである。他方、代官江川の触に、「一体百姓(いったいひゃくしょう)は国(くに)の本(もと)に付(つき)」(史料集七、二八九頁)とあるように、武器を取り上げられた農民は、国家の基(もと)と位置づけられることになった。
 この近世の「平和」は、日本社会が文明化する過程であり、今日「和風」「日本風」といわれる生活や文化を形成する過程でもあった。「平和」のもとで、江戸社会は、さまざまな分野で多彩な展開をみせた。そして、これらを基礎づけたのが文字の普及であった。小平市域に残る膨大な近世文書は、近世が文字社会、文書社会であったことを物語っている。
 明治元年(一八六八)、明治新政府は元幕府代官の江川英武を通じて、七月に大沼田新田、八月に廻り田新田に、「詔書(しょうしょ)」を廻した。ここには、「慶長年間幕府を江戸に開きしより府下(ふか)日々繁栄に趣候(おもむきそうろう)は全天下の勢(いきおい)斯に帰し、貨財随(かざいしたがい)て聚(あつま)り候事に候」と、慶長八年に徳川家康が江戸に幕府をひらいて以後、江戸の繁栄が全国に及び、貨幣が江戸に集まったことが記されている(史料集六、六頁、史料集八、二九九頁)。幕府を倒した新政府も、幕府の達成を評価することから、新たな政治をはじめたのである。
 第二の視点は、「開発」を生産力=経済的問題としてだけでなく、「新しい公共性・共同性(地域秩序)の創出と展開」としてとらえることである。戦国時代まで、自然が多く残されていた小平市域に、近世を通じて七つの「村」が成立し、今日の基礎ができあがった。この地域の生産力は低く、宝永(ほうえい)五年(一七〇八)一一月に小川村の名主が支配代官にあてた訴状には、「畑余慶(よけい)無御座其上薄地(うすち)にて地狭(ちぜま)の百姓共難儀仕候(なんぎつかまつりそうろう)」(史料集一二、二〇頁)と、畑(耕地)が少なく土地が痩(や)せているので農民たちが困窮していると述べ、享保八年(一七二三)五月に小川新田が幕府代官の岩手藤左衛門信猶(いわてとうざえもんのぶなお)にあてて出した願書には、「当村野新田にて就中(なかんずく)土悪敷候故秣(あしくそうろうゆえまぐさ)をこやしに入不申(いれもうさず)候ては作物出来不仕候(できつかまつらず)」(史料集一二、五八頁)と、土質が悪いので秣を肥料に使わないと作物はできないと述べている。新田農民は、劣悪な条件を肥料によって補い、生産と生活を向上させていった。近世の開発によって、小平市域の景観は大きく変貌したのである。
 近世小平の開発は、大きく二期に分けられる。第一期は、明暦二年(一六五六)の小川村の開発であり、第二期は、将軍吉宗が展開した享保改革(きょうほうかいかく)の新田政策による小川新田、鈴木新田、野中新田善左衛門組、野中新田与右衛門組、大沼田新田、廻り田新田の六か村新田の成立である。この時期、、周辺各地から集まった新田農民たちは、生産・生活の基礎単位である「組」や「家」を通じてさまざまな制度やシステムを形成し、新たな公共性・共同性を創出・発展させていったのである。
 第三の視点は、小平市域と江戸城・江戸市中との緊密化である。近世国家の政治の中心=政権所在地、すなわち首都江戸の成立と巨大都市化は、小平市域をふくむ江戸周辺農村との関係を緊密にしていった。首都江戸と小平市域を結ぶ街道や上水、将軍家や尾張家の鷹場、江戸向けの野菜・穀物などの供給地としての新田などは、両地域の緊密化の要因であった。武士の別荘である抱屋敷(かかえやしき)、行楽地としての小金井桜、江戸市中で購入した下肥(しもごえ)(肥料)なども両地域を結びつけた。
 天保一四年八月一一日、代官の江川英龍が廻り田新田をふくめた村々にあてた触には、「近在は別(わけ)て江戸の風儀(ふうぎ)を見習ひ、都て農家不似合之体(にあわざるのてい)に成行(なりゆき)、此驕(これおご)り候に付」(史料集七、三〇三頁)と、江戸の周辺農村が、江戸の風習を見習い、農家に似合わず驕っている状況を述べ、農村の都市化を警告している。小平市域の都市化・江戸化の基礎には、江戸と周辺地地域の密接化があったのである。
 以上、本書では、近世の国家・社会の動きをふまえつつ、これらの三つの視点をもとに、近世小平のすがたを、先人一人一人にまでスポットをあて、ていねいにたどることにしたい。まずは、近世に先立つ、古代・中世の小平市域のようすからみていこう。