現在の小平市域は、武蔵野(むさしの)のほぼ中央にある。武蔵野が開発され、この地に人が住みつくようになったのは、近世という時代からであった。そのため、近世の開発よりも前の武蔵野は、古くから、どこまでも続く、未開の原野であったとされてきた。
たとえば、元久二年(一二〇五)に撰進(せんしん)された『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』には、「武蔵野や行けども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらん」(巻四-三七八、源通光)、「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月影」(巻四-四二二、藤原良経(ふじわらのよしつね))など、草深く、果てしないイメージをともなう、歌枕としての武蔵野を詠み込んだ歌がみられる。
和歌だけではない。平安時代の中頃にあたる寛仁四年(一〇二〇)、『更級日記(さらしなにっき)』の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、上総(かずさ)から武蔵をへて京都にのぼる際、武蔵野を通行した。そのようすについて、「むらさき生ふときく野も、蘆(あし)、おぎのみ高く生いて、馬にのりて弓もたる末見えぬまで、たかく生いしげりて、中をわけゆくに」と、紫草(むらさき)が生えていると聞いていた武蔵野は、馬上に持つ弓の端まで隠れてしまうほど、蘆とはぎが高く生い茂った野原で、そのなかを分け入っていったのだという。また、時期がくだって、一四世紀中頃から末、南北朝時代の宗久という歌人は、「武蔵野の果なき道に行暮れて」、同道の僧たちと草を枕に、武蔵野で一夜を過ごしたと述べている(『都のつと』)。これらの日記や紀行文などの文学作品でも、武蔵野は、草深く、広漠としたイメージをともない、しばしば描かれてきた。
他方、近世の開発は、こうした武蔵野を大きく変えたものと認識されていた。天保年間(一八三〇~四四)に成立した地誌・紀行文である『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』は、徳川家康(とくがわいえやす)が関東に入国し、江戸に城を築造した頃より、「広漠の原野も田に鋤き畑に耕し、尾花が浪も民家林藪に沿革」した結果、かつての武蔵野の面影は「万が一を残せるのみ」という状況になったとする。開発前の武蔵野が広大な未開の原野であるというイメージは、近世まで引き継がれていたことがわかる。
以上にみてきた、近世に開発される以前の武蔵野の、草深く、広漠とした、未開のイメージには、それなりの事実が反映されていることは確かだろう。しかしながら、開発前の武蔵野にも人や物の往来があったのであり、古来変わらぬ人跡未踏の地だったわけでは必ずしもなかった。そこで、この序章では、人や物が往来する道を中心に、人の活動の跡を追い、現在の小平市域にあたる場所や、これをふくむ武蔵野が近世の開発まで、どういった変化をへてきたのかを述べることとしたい。