武蔵国の成立

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現在の小平市域に相当する場所で、人のくらしや活動の痕跡が再びみられるようになるのは、七~八世紀頃になる。
 日本列島に成立した古代国家は、中国大陸の唐に倣い、刑法にあたる「律(りつ)」と行政法・民法にあたる「令(りょう)」という法典を導入し、中央集権的な国家体制をつくりあげた。その下で、地方支配の単位となったのが「国(くに)」である。各地で国が形成された時期は七世紀後半とみられ、武蔵国もこの頃に成立したと考えられる。
 大宝元年(七〇一)の大宝律令の制定・施行にともなって地方支配制度が整備され、全国は、畿内(きない)の五か国(大和(やまと)・山城(やましろ)・摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ))と、東海(とうかい)・東山(とうさん)・北陸(ほくろく)・山陰(さんいん)・山陽(さんよう)・南海(なんかい)・西海(さいかい)の七道(しちどう)に区分された。武蔵国は最初東山道に属したが、宝亀二年(七七一)に東海道に属するものと改められた。
 国の下には「郡(ぐん・こおり)」という組織が設置されたが、武蔵国には、多磨(たま)・荏原(えばら)・豊島(としま)(以上、現東京都)、都築(つつき)・久良(くら)・橘樹(たちばな)(以上、現神奈川県横浜市と川崎市)、足立(あだち)・新座(にいくら)(新羅)・入間(いるま)・高麗(こま)・比企(ひき)・横見(よこみ)・埼玉(さいたま)・大里(おおさと)・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・賀美(かみ)・児玉(こだま)・那珂(なか)・秩父(ちちぶ)(以上、現埼玉県)の二一郡が置かれた。これらのうち、現在の小平市域は、多磨郡にふくまれていた。
 国の支配や行政は、都から派遣された国司(こくし)がになった。彼らが赴任した役所とその所在地を国府(こくふ)というが、この国府は、現在の府中市、大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)境内とその東側隣接地の京所(現府中市宮町二丁目付近)という場所に置かれた。また、天平一三年(七四一)には、聖武天皇(しょうむてんのう)が国分寺建立の詔を発し、全国六〇余国に僧寺(そうじ)(正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」)と尼寺(にじ)(同じく「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」)が建立されることになり、武蔵国では、現在の国分寺市、国府の北西二~三キロの場所に置かれた。このように、現在の小平市域からさほど遠くない場所に、当時の武蔵国の中心があったのである。

図0-1 江戸名所図会に描かれた国分寺伽藍跡
子供の足もとに国分寺の瓦の破片が描かれている。
『江戸名所図会』上pp.930-931より転載。