これらの古代の主要道路は、全国各地での調査によって、両側に側溝を持つ道幅約一二メートルの、直線道路として造成されたことが明らかにされてきている。つまり、極めて大規模かつ目的地を最短距離で結ぶ道路だったが、そこには、実用性や地元の事情というよりはむしろ、国家の成立や威信を宣伝する意図が色濃く反映されていたようである。
東山道武蔵路も同様で、平成七年(一九九五)に行われた調査により、現在の国分寺市の旧国鉄中央鉄道学園跡地(泉町二丁目、JR西国分寺駅東側)から、東西に側溝を持つ、道幅約一二メートルの直線道路の遺構が、南北三四〇メートルにもわたり発見された。東山道武蔵路に比定される遺構は、このほかにも、府中市・小平市・東村山市・所沢市でも発見されている。とくに小平市域では、上水本町・小川町二丁目(JR武蔵野線新小平駅西側の原島農園)・小川東町二丁目(小川団地内)の三地点で、当時の道路遺構が確認された(図0-2)。こうした近年の発掘成果から、武蔵国北部を南北に縦断する東山道武蔵路の直線的な経路が明らかになってきた。
図0-2 小平市域周辺の道路遺構確認地点と東山道推定ライン
『道路遺構等確認調査報告』p.59より転載。
東山道武蔵路は、中央政府と国府の間の文書・情報の伝達、都への貢納物や租税の運送、また蝦夷(えみし)征服においては兵士や武器を供給することなどにも用いられたようである。こうした人や物が行き交う道路が、現在の小平市域を南北に通っていた。
しかし、宝亀二年(七七一)、都からの使者が武蔵国府へいくのに不便なことなどを理由に、武蔵国は東山道から東海道の所属にあらためられた。これにより、東山道武蔵路は、都と地方を結ぶという公的な役割を失うこととなった。ただし、道路自体が消滅したわけではなく、側溝の廃絶などの変化をともないながらも残されたのであり、人や物の往来はその後も継続した。
天長一〇年(八三三)、武蔵国府の管轄が広く、交通も不便で、公私の旅人のなかには、飢えたり、病気になったりする者が多いという理由から、この道沿いと推定される多磨・入間郡境の場所に、旅人を救うための施設である悲田処(ひでんしょ)が設置された。このことは、当時の東山道武蔵路の往来が過酷であったとともに、公的なものにとどまらない交通が増えてきたことを物語るものである。