鎌倉街道上道

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鎌倉幕府の成立にともない、東国・関東の政治的中心地となった都市鎌倉と各地を結ぶ道が発達した。なかでも、幹線道路として栄えたのが、武蔵国を通過する上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)の三本の道路である。これらの道は、「いざ鎌倉」という語に示されるような、鎌倉幕府に何か危急の事態が起こったときに、東国の御家人らが鎌倉に馳せ参じるために整備された街道で、政治的・軍事的性格の強い道だったとされるが、一方では、日常的な物資の流通、商人や宗教者など多様な旅人の往来にも利用されていた。なお、鎌倉街道とは近世以降に成立した名称で、当時は「鎌倉道」「鎌倉往還」「鎌倉大道」などと呼ばれていたようである。
 上道は、鎌倉を発して武蔵国をこえ、現在の埼玉県比企郡で上野国方面と下野国方面に分岐する。とくに、上野国方面に伸びる道は、さらに信濃・越後(えちご)国へ続いていく。武蔵国内では、現在の町田・府中・国分寺・小平・東村山・所沢などの各市を南北に走っており、古代の東山道武蔵路の経路が、おおむね踏襲されていたようである。ちなみに、元弘三年(一三三三)に、上野国世良田で挙兵した新田義貞(にったよしさだ)は、この上道を攻め上がり、分倍河原(ぶばいがわら)(現府中市)をはじめとする各所で合戦を繰り広げ、鎌倉を陥落させた。中道は、鎌倉と奥州を繋ぐ街道で、武蔵国東部を通り、高野の渡をへて、古河(こが)(現茨城県)・宇都宮(うつのみや)(現栃木県)にいたり、陸奥国を縦貫する大道につながる。下道は、鎌倉と下総・常陸(ひたち)国方面を結ぶ街道で、東京湾岸を北上、市川(いちかわ)(現千葉県市川市)・土浦(つちうら)(現茨城県土浦市)をへたのち、勿来(なこそ)(現福島県いわき市)を通り、陸奥へとつながっていた。
 以上の上道・中道・下道の経路を示すと、図0-3のようになるが、これらのうち、上道が現在の小平市域、とくに株式会社ブリヂストン東京工場のなかから津田塾大学の東側にかけて通っていた。道幅は今日とさほど変わらない二間(約三・六メートル)ほどであったとされるが、当時の上道のようすをうかがうことは難しい。

図0-3 鎌倉街道(概略図)
齋藤慎一『中世東国の道と城館』p.123の図をもとに作成。


図0-4 現在の鎌倉街道(小川町2丁目 JR新小平駅付近)
(平成24年7月撮影)