鎌倉街道上道の経路は、鎌倉極楽寺(ごくらくじ)の僧とされる明空が集成し、正安三年(一三〇一)に成立した『宴曲抄(えんきょくしょう)』の中の、「善光寺修行」という作品で歌い込まれている。宴曲とは、鎌倉時代から室町時代にかけて流行した歌謡の一種で早歌ともいう。この作品のなかでは、「我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ」と、小平市域よりも南に位置する恋ヶ窪(こいがくぼ)(現国分寺市)、同じく北に位置し、宿駅としてにぎわっていた久米川宿(くめがわじゅく)(現東村山市)が現れるが、その間の小平市域にあたる場所についての記述は、残念ながらみられない。
しかし、小平市域には、鎌倉街道上道にかかわる伝承がいくつか伝えられている。上道が五日市街道(いつかいちかいどう)と交わる上水本町には「二つ塚(ふたつづか)」という地名が残っているが、これはかつて、街道沿いに一里塚(いちりづか)が設けられたことによるという。また、上道と青梅街道が交わる場所よりさらに一〇〇メートルほど北の場所には、「石塔が窪(せきとうがくぼ)」という地名があるが、この場所には、近世末まで、秩父青石(ちちぶあおいし)(緑泥片岩(りょくでいへんがん))で作られた、かなり大きな石碑が立っていた。しかし、近世末~明治初頭頃、府中の六所(ろくしょ)祭りの御輿かつぎに参加した若者たちが、帰り道にその余勢を駆って毎年この石塔をかつぐことをはじめた結果、いつの間にか野口村(現東村山市)まで運ばれてしまい、当地の正福寺(しょうふくじ)参道の石橋に長く用いられたのだという。
以上の伝承を厳密に確かめることはできないものの、現在の小平市域における鎌倉街道上道沿いには当時、塚や板碑とみられる石碑があったものと考えられる。これらの建立意図の特定は困難だが、上道沿いという立地条件からすると、合戦での戦死者や旅人の不慮の死を供養するものと推測される。