幕府滅亡後の鎌倉

21 ~ 22 / 868ページ
鎌倉幕府の打倒を企図した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に同調する動きが広まるなか、元弘三年(一三三三)五月に新田義貞が上野国で挙兵した。そして、各所で幕府軍と交戦しながら鎌倉街道上道を南下、鎌倉を陥落させた。幕府の執権北条高時(しっけんほうじょうたかとき)は一族とともに自害し、ここに鎌倉幕府は滅びた。
 幕府の滅亡をうけて後醍醐天皇は、京都に新政権を樹立し(建武政権(けんむせいけん))、天皇親政による専制的な政治を目指した。しかし、その政治は性急にすぎたため、武士を中心に不満が高まり、建武二年(一三三五)に足利尊氏(あしかがたかうじ)が離反すると、政権は早くも瓦解した。翌年、尊氏は光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し(北朝)、室町幕府を創設。後醍醐天皇は吉野(よしの)(現奈良県吉野町)に逃れ、南朝をおこした。こうして、京都の北朝と吉野の南朝に二人の天皇がならび立ち、それぞれに従う勢力を巻き込みながら、内乱が展開していくことになる。
 鎌倉幕府が滅亡したのちの鎌倉には、関東を統括する政庁として鎌倉府(かまくらふ)が置かれた。その首長として鎌倉公方(かまくらくぼう)(関東公方とも)が置かれ、この地位には足利氏の一族が就いた。鎌倉公方を補佐し、政務をつかさどったのが関東管領(かんとうかんれい)で、上杉氏(うえすぎし)(山内(やまのうち)・犬懸(いぬがけ)両家)がこれを務めた。補佐役の関東管領は、鎌倉公方ではなく、京都の室町幕府が任命した。そのため、独立志向の強い鎌倉公方と、京都の将軍・幕府に従おうとする関東管領は、しばしば対立した。
 このように、鎌倉幕府の滅亡後も、鎌倉は関東・東国支配の拠点となった。したがって、鎌倉と各所を結ぶ鎌倉街道も幹線道路として、引き続き重要な意味を持っていた。実際、鎌倉街道はしばしば合戦の舞台、もしくは軍勢の進軍経路となっており、鎌倉公方が武蔵府中を起点として、そこから鎌倉街道をくだり、進軍していく例も多く確認できる。これらはいずれも、軍事的な通行事例であるが、より一般的な人や物資の往来についても、鎌倉時代以来、継続していたものと考えられる。