鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領上杉氏の対立が頂点に達した享徳三年(一四五四)一二月、成氏は管領山内上杉憲忠(やまうちうえすぎのりただ)を自邸に招いて殺害し、ついで憲忠邸を襲撃した。これが、公方足利氏と管領上杉氏の全面戦争である、享徳の乱(きょうとくのらん)のはじまりである。
翌年正月には、上野国から鎌倉街道上道を南下してきた上杉氏の軍勢と、公方成氏の軍勢とが分倍河原(ぶばいがわら)で合戦となった。この合戦では公方成氏が勝利したが、上杉氏の勢力はなお強力であったため、成氏は支持勢力が多い北関東に行き、同年三月に下総国古河城に入り、ここを本拠とした。以降、公方足利氏は古河公方と称されるようになった。一方、関東管領の山内上杉氏は、上野国と武蔵国北部を領国とした。また、その一族で、かつて関東管領も勤めた犬懸上杉氏の没落と入れ替わるかたちで台頭してきていた扇谷上杉氏が、武蔵国南部と相模国を領国とした。こうして、関東を統一して支配する政庁であった鎌倉府は崩壊し、戦国時代に入っていく。
鎌倉府の崩壊は、鎌倉街道を幹線道路とする交通のあり方を変化させた。現在の小平市域が含まれる武蔵国南部や相模国を領国とした扇谷上杉氏は、長禄元年(一四五七)に、扇谷上杉持朝が河越城(現埼玉県川越市)、家宰太田資清(かさいおおたすけきよ)の子資長(すけなが)(法名道灌(どうかん))が江戸城(現千代田区)を取り立てたとされるが(『鎌倉大草紙』)、両城はいずれも鎌倉街道から離れていた。そして、江戸と領国内の各所に設けられた政治的・軍事的な拠点を結ぶ幹線道路が整備されていった。こうした江戸を起点とした交通体系の成立にともない、現在の小平市域の辺りを南北に通る鎌倉街道上道の重要性は減退していった。
交通体系の中心とされた当時の江戸は、軍事的のみならず経済的・文化的にも重要・著名な地であり、いろいろな人びとが訪れた。たとえば、太田道灌に招かれ、江戸を訪れた京都臨済宗の僧侶蕭庵龍統(しょうあんりゅうとう)は、河口の高橋周辺(のちの常盤橋(ときわばし))には、和泉・越後・相模・常陸・安房(あわ)・信濃国などから、茶・米・銅などさまざまな物資が集まり、市の賑わいは魚の鱗(うろこ)や蟻の大群のようであったと、当時のようすを記している。このほかにも、天台宗の僧侶堯恵(ぎょうえ)、聖護院門跡道興准后(しょうごいんもんぜきどうこうじゅごう)、臨済宗の僧侶で漢詩人の万里集九(ばんりしゅうく)などが江戸近郊の名所を訪れたり、江戸城やその周辺のようすを記したりしている。天正一八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国するのはまだのちのことであるが、当時の江戸は、かつていわれたような「寒村」ではなかった。