北条領国下の交通路

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大永四年(一五二四)になると、北条氏が武蔵国に進出。そして、天文一四・一五年(一五四五・四六)、山内・扇谷上杉氏、古河公方足利晴氏との河越合戦に勝利し、扇谷上杉氏を滅亡させるなど、両上杉氏の退潮と、関東の政治秩序の勢力交代を決定付けた。こうして、北条氏の武蔵国支配が進展していくが、由井城(ゆいじょう)(現八王子市)の大石氏(おおいしし)、戸倉城(現あきる野市)の小宮氏(こみやし)、勝沼城(かつぬまじょう)(現青梅市)の三田氏(みたし)といった多摩地域の領主(国衆(くにしゅう))らは、大永四年に始まる武蔵国侵攻直前までの段階で、北条氏に服属していた(三氏はいずれも山内上杉氏の家臣)。
 北条領国下では、鎌倉街道上道に代わる南北の、二本の幹線道路がみられる(図0-5)。一つは、鉢形(はちがた)・毛呂(もろ)(現埼玉県毛呂山町)・勝沼(かつぬま)(現青梅市)・由井(現八王子市)・椚田(くぬぎた)(現八王子市)・当麻(たいま)(現神奈川県相模原市)を通る「山の辺の道」で、北条氏の本拠小田原(おだわら)から八王子(はちおうじ)・鉢形という二大支城、そして上野国へと続く道である。もう一つは、江戸から河越、松山(まつやま)をへて、上野国の太田(おおた)、下野国の足利へと続く道で、河越より北側は、かつての鎌倉街道上道のうち下野国へ向かうルートがもとになっている。そして、江戸は、扇谷上杉氏の領国だった時期から引き続き、各所への交通路の起点とされ、そこから人や物資が動いていた。他方、鎌倉街道上道の重要性の低下は決定的となり、この頃、小平市域の北にあった久米川宿(現東村山市)も衰退した。

図0-5 戦国期の交通路(概略図)
齋藤慎一『中世東国の道と城館』p.51の図をもとに作成。