武蔵野における集落の成立

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鎌倉街道上道の重要性の低下とともに、戦国時代の武蔵野には、今一つ、大きな変化が起こっていた。それは、集落の成立である。武蔵野台地は近くに川がなく、また地下水位も低いため、生活に不可欠な飲料水の確保が困難であるとされてきた。このことは決して間違いではないが、武蔵野の中には、地下水位が浅く、比較的飲み水を確保しやすい場所もあった(浅水帯(せんすいたい))。戦国時代、とくに北条氏が武蔵国を領国とした頃には、武蔵野東部の浅水帯に人が住み、多くの集落が成立していたようである。
 図0-6は、武蔵野台地一帯の地下五メートルよりも浅い所から水が出る浅水帯の場所(縦線の部分)と、永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)」に記載された北条氏の家臣の居所をあわせて示したものである(◎の部分、参考のため一部に地名を付した)。なお、「小田原衆所領役帳」とは、相模国小田原を本拠とする北条氏康が作成させた、領国内の家臣に軍事動員や労役などを賦課するための基本台帳のことである。

図0-6 武蔵野台地の浅水帯と北条氏家臣の居所
貝塚爽平『東京の自然史』p.79、渋江芳治「多摩と江戸の村落景観」
(小野正敏他編『中世はどう変わったか』)p.157の図をもとに作成。

 この図によると、北条氏の家臣が居住していた集落の多くは、浅水帯のなかに分布していることがわかる。これらの集落では、井戸により地下水を汲み上げ、飲み水を確保していたものと考えられる。集落の地名には、田無(たなし)や石神井、阿佐ヶ谷(あさがや)、鷺宮(さぎのみや)、中野(なかの)など、近世ひいては今日にも残っている地名もみられるが、やがて廃絶、移動するものが多かった。一方、武蔵野西部である現在の小平市域()の辺りは地下水位が低く、集落もみられない、空白となっている。浅水帯以外の場所の開発と集落の形成は、のちの玉川上水(たまがわじょうすい)の開削をまたなければならなかった。