徳川家康の関東入国

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天正一八年(一五九〇)、全国統一を進める豊臣秀吉(とよとみひでよし)は北条氏の小田原城を包囲し、七月に降伏させた。七月二三日、秀吉は徳川家康(とくがわいえやす)から駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)・甲斐(かい)・信濃国を取り上げ、代わりに北条氏の旧領であった武蔵・相模・伊豆(いず)・下総・上総・上野国、および下野国の一部を与えた。そして、翌八月、家康は江戸城に入った。関東領国の支配拠点として江戸が選ばれたのは、小田原や鎌倉と比べ関東の中心に位置していたこともさることながら、戦国期以来江戸が、北条領国の政治・経済・文化的側面での重要拠点だったことによるものだろう。
 慶長五年(一六〇〇)九月、関ヶ原の合戦(せきがはらのかっせん)に勝利した家康は全国支配の実権を掌握。そして、慶長八年(一六〇三)二月に征夷大将軍に任じられると、江戸に幕府を開いた。こうして、江戸は近世国家の政治の中心地(首都)として機能することとなった。
 それにともない、同月より城下町の整備が大規模に進められた。全国から人夫を動員して、町地を造成したり、舟運のための堀を開削したりした。また、慶長九年(一六〇四)六月より江戸城の修築・拡張工事が行われ、各地の大名に石材の運搬、石垣・本丸・天守台の普請などを担わせた。これらは、全国政権としての国家事業であり、それゆえに「天下普請(てんかふしん)」「公儀普請(こうぎふしん)」などと称された。こうした、江戸城と城下町の大規模な普請は、三代将軍家光(いえみつ)の時代まで続いた。幕府は江戸城やその城下を、首都にふさわしい規模へとつくり替えていったのである。