ここではまず、青梅街道がどのような道であったのかをみていこう。江戸が大規模な普請によって首都に変貌していくさなか、江戸城やそのほかの幕府施設、寺院などの建設に(とくに白壁用に)、大量の漆喰(しっくい)が用いられた。漆喰の原料となるのが石灰(せっかい)である。石灰は、武蔵国多摩郡上成木村(かみなりきむら)と北小曾木村(きたおそぎむら)(いずれも現青梅市)で採掘され、焼き上げられた。この石灰を両村から搬出し、江戸に運ぶために整備されたのが青梅街道である。
青梅街道は、内藤新宿(ないとうしんじゅく)(現新宿区)から青梅までの一一里(約四四キロメートル)の道のりで、中野(現中野区)・田無(現西東京市)・箱根ヶ崎(はこねがさき)(現瑞穂町)に宿駅が置かれていた。のちの明暦二年(一六五六)に、田無・箱根ヶ崎を中継する宿駅として小川村がひらかれ、四宿となった(第一章第一節)。箱根ヶ崎を出たのち、道は青梅の手前で北に分かれる。ここで分岐した道は成木道(なりきみち)といい、四里ほど進めば成木に達する。分岐した道をとらずに、青梅を通過し、さらに多摩川沿いの奥多摩の山道を進むと、やがて甲斐国都留郡小菅村(こすげむら)(現山梨県北都留郡小菅村)に出た。そのため、この道は甲州裏街道などとも呼ばれた。なお、青梅街道の呼称は近代以降のもので、近世では公式名称はなく、「あふめ(青梅)道」「甲州通り」などと呼ばれていた。
図0-7 青梅街道(小川町1丁目)(昭和42年10月撮影)
郷土写真資料(小平市立喜平図書館所蔵)