つぎに、五日市街道は馬橋村(現杉並区)で青梅街道から分かれ、吉祥寺村(きちじょうじむら)(現武蔵野市)、小金井新田(こがねいしんでん)(現小金井市)、砂川村(すながわむら)(現立川市)、伊奈村(いなむら)(現あきる野市)をへて五日市宿(現あきる野市)にいたる道である。全長は約一〇里余り(約四二キロメートル)で、現在の都道の主要地方道七号杉並五日市線にほぼ重なる。五日市街道という呼称も、やはり近代以降に定着したもので、近世段階では、「砂川道」「青梅街道脇みち」「青梅街道裏道」「五日市みち」などと呼ばれていた。
現在の小平市域でいうと、玉川上水の北側に沿って、御幸町・回田町・喜平町を西に進み、喜平橋のところで上水の南側に出る。そして、上水南町・上水本町を進み、国分寺市に入っていく、という経路になっている。しかし、青梅街道と異なり、小平市域にあった近世の村々は五日市街道の宿駅であったわけではなく、往来する荷物の継ぎ立てなどは行っていなかった。
五日市街道は、西多摩地方の薪炭を江戸に運ぶ道として利用される道であった。五日市宿は、戦国期以来、五と十のつく日に定期市がひらかれていたが、炭市のはじまりは正保年間(一六四四~四八)の頃であった。当初は隣接した伊奈宿が中心だったが、承応年間(一六五二~五五)以降、伊奈宿との市場争いに勝ち、山間部から出荷される薪炭を独占し、これらを江戸に売り発展した。
こうして、首都江戸の成立にともない、甲州道中の脇往還として、江戸に石灰を輸送する青梅街道と薪炭を輸送する五日市街道が整備され、人や石灰・薪炭をはじめとする物資が東西に行き来することとなった。多摩地域の村々や武蔵野は、江戸に強く結び付けられていったのである。