玉川上水の開削

29 ~ 31 / 868ページ
道の整備とともに、武蔵野に重大な影響を及ぼしたのが、生活に不可欠な水を確保するための上水道の整備である。太田道灌の頃の江戸は、井の頭池(いのかしらいけ)(現三鷹市・武蔵野市)からの流水と、赤坂溜池(あかさかためいけ)の湧水、さらに江戸町中の井戸により、飲料水をまかなっていた。徳川家康は関東入国にあたり、井の頭池を主要な水源とし、善福寺池(ぜんぷくじいけ)や妙正寺池(ともに現杉並区)からの川など、いくつかの小さな川を集める用水、神田上水(かんだじょうすい)を整備した。しかしその後、江戸の武家屋敷や町が、神田上水の給水域外に広がっていった結果、新たな上水が必要となった。そうして開削されたのが玉川上水だった。
 玉川上水は、多摩川の水を羽村(はむら)(現羽村市)で取水し、武蔵野台地を通して、その東端にある江戸に飲料水を運んだ上水道である。開削工事に着手されたのは、承応二年(一六五三)四月。工事を幕府から請け負ったのは、庄右衛門(しょうえもん)と清右衛門(せいえもん)の兄弟であるが、その素性は明らかではなく、多摩地域の百姓とも、江戸の町人ともいわれている。そして、同年一一月までという短期間に、羽村から四谷大木戸(よつやおおきど)(現新宿区)までの約四三キロメートルにわたる用水路が開削された。
 こうした玉川上水の開削も、多摩地域や武蔵野が江戸に強く結び付けられたことを示す事例の一つといえるが、何よりも重要なのは、それが、武蔵野台地での飲料水の確保を可能にし、この地に人が住める条件を整えたことである。すでに述べたように、戦国時代の武蔵野でも、地下水が浅く飲み水の確保が可能だった浅水帯には人が住み、集落が成立していたが、玉川上水の開削は、より広い範囲の武蔵野開発を可能にした。
 図0-8は、やや時期がくだる正徳年間(一七一一~一六)頃の絵図であるが、多摩川から取水された玉川上水が江戸にいたるまでの間に、幾筋もの分水路を枝分かれさせていることがわかる。現在も小平市域を流れる野火止用水(のびどめようすい)や小川分水(おがわぶんすい)(第二章第六節)のような分水路を引いて飲み水を確保することにより、武蔵野にいくつもの村がひらかれていくのである。

図0-8 「(正徳末頃の上水図)」
『東京市史稿』上水篇第一の付図に加筆。