村山村から岸村へ

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以上のように、江戸の建設にともなって青梅街道や五日市街道、玉川上水が整備・開削されることにより、武蔵野は江戸に強く結び付けられるとともに、本格的な開発を可能にする条件が形成された。これをうけて、武蔵野開発に乗り出した一人が、小川九郎兵衛(おがわくろべえ)だった。
 九郎兵衛は、現在の小平市域に含まれる村では最も早い明暦二年(一六五六)に、小川村の開発に着手した。開発の詳しい様子は後述するとして(第一章第一節)、この序章の最後に、九郎兵衛がどのような動向のもとで、小川村の開発に乗り出したかを確認しておく。
 九郎兵衛はもともと、岸村(きしむら)(現武蔵村山市)というところに住んでいた。岸村は近世初頭、殿ヶ谷村(とのがやむら)・箱根ヶ崎村・石畑村(いしはたむら)(いずれも現瑞穂町)とともに「村山村」として、一村に括られていた。なお村山村とは、武蔵七党の村山党の本拠(名字の地)で、狭山丘陵一帯(現東村山市・東大和市・武蔵村山市・瑞穂町)に比定される村山郷の遺称という。
 寛文八年(一六六八)に行われた検地(百姓の支配・年貢徴収のための測量調査)の段階で、岸村など四か村はなお「村山村」と把握されるが、この前後で、四つの村に分割されたようである。しかし、その後も、殿ヶ谷村に鎮座し、古代以来の歴史を有する阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)を共通の鎮守とするなど、四か村のつながりは残った。では、村山村から分立した四か村のうち、九郎兵衛の居村であった岸村とは、どのような村だったのか。