表0-1 寛文8年(1668)岸村の地目構成 | ||
地目 | 町,反,畝,歩 | 比率(%) |
上田 | 0,7,5, 0 | 0.27 |
中田 | 0,3,8,14 | 0.13 |
下田 | 0,5,1,10 | 0.18 |
下々田 | 0,3,9,24 | 0.14 |
上畑 | 7,9,0,17 | 2.84 |
中畑 | 51,1,0,21 | 18.43 |
下畑 | 70,3,0,24 | 25.35 |
下々畑 | 135,7,0,14 | 48.95 |
切畑 | 7,9,0,10 | 2.84 |
屋敷 | 2,2,9,19 | 0.82 |
寛文8年3月「武州多摩郡村山郷岸村申之御縄水帳」(武蔵村山市荒田家文書)、寛文8年4月「武州多摩郡山口領岸村申之御縄水帳(下書)」(同)より作成。 |
各地目が占める比率(%)からもわかるように、岸村の土地の大部分は畑(上・中・下・下々畑、切畑)からなっているが、小平市域の村々ではほとんどみられない田も、計二町四畝一八歩(上・中・下・下々田)ほど確認できる。これらの畑や田、そして屋敷は、次の図0-9のように分布していた。
図0-9 延享2年岸村絵図(武蔵村山市荒田家文書)
根岸茂夫他編『近世の環境と開発』p.23の図を参考に加筆。
この図は、やや時期がくだるが、延享二年(一七四五)一〇月付の岸村絵図である。村の北側は狭山丘陵、南は武蔵野台地である。集落は丘陵と台地の境に立地し、狭山丘陵の谷間に田地が分布していることがわかる。これらは、谷の奥に築かれた「溜池」によって灌漑されていた。一方、集落の背後にあたる南側の武蔵野台地には畑がひらかれていたが、台地上に畑が活発に開発されるようになるのは近世に入ってからである。寛文八年の検地(けんち)後も、翌寛文九年をはじめ、新規に開発された畑を対象とした検地が数度、実施されている。
したがって、近世以前の中世の岸村では、谷間の水田を中心に農業が営まれていたが、近世に入ってのち、一七世紀以降は、南側の武蔵野台地に畑をひらいていき、畑作中心の村に転換していったようである。丘陵から台地への進出。岸村におけるこのような動向のもと、小川九郎兵衛は小川村の開発に乗り出していくことになる。