岸村の寛文八年(一六六八)検地帳および同九年新田検地帳によれば、村内でとくに広い土地を所持しているのは、村野五郎右衛門(むらのごろえもん)(計四町四反五畝一五歩、以下同じ)、その分家村野助左衛門(むらのすけざえもん)(三町九反四畝二歩)、小川九郎兵衛(三町六反三畝五歩)、福井半右衛門(ふくいはんえもん)(三町五反五畝一五歩)の四名である。多くの百姓の所持地は一町歩に満たないので、その広さは村内で抜きん出たものといえる。なお、当村の名主を務めたのは荒田平兵衛(あらたへいべえ)(一町九畝二歩)で、九郎兵衛は、岸村の広い土地所有者の一人という位置にあった。
五郎右衛門・半右衛門・九郎兵衛・平兵衛の名前は、『小平町誌』が紹介する正保二年(一六四五)の阿豆佐味天神社の棟札写において、箱根ヶ崎村名主の村山助右衛門(むらやますけえもん)らとともに、当社の「旦那」(檀那)として記載されている。彼らは、岸村をふくむ村山村の総鎮守阿豆佐味天神社の修理費用の負担、もしくは資材提供に応じられる富裕な存在で、戦国時代以来の村山の有力者層すなわち土豪と考えられる。彼らのなかで、近世以降、とくに活発な動きをみせたのが、村野家と小川家であった。